2007年9月18日火曜日

宗教と政治 ラスプーチン

 安倍氏が辞任した。連日の報道が示しているように、日本は緊急事態を迎えていると言って良いだろう。

 平穏でいられることが日本という国や国民の資質の素晴らしさかもしれないが、平和ボケだとすると、この後がコワイ。(福田さんか麻生さんかということではなく、近々すごい独裁者が日本に生まれるかもしれないという意味。それは本当に恐ろしいこと。その予兆は十分にある)

 実際、国家の危機だろう。首相が所信表明を行った直後に突如として辞任を表明するとは。連日、自民党の次期総裁選についての報道やゴシップ的な話題は流されているが、この「タイミング」に「なぜ」という事実関係は曖昧なままなようだ。官房長官は健康問題を示唆し、事実安倍氏は入院したままだ。

 私は、政局や政策ではない面から、彼や、政治というもの、そして宗教、信仰を考えてみたいと思う。なぜなら、すでに一部の報道にあるように、安倍氏の信仰していたという人や団体、それに関連する不透明な人脈についてが見え隠れしているからである。

 お祖師さまは、
「佛法やうやく転倒しければ世間も又濁乱せり。佛法は体のごとし、世間はかげ(影)のごとし。体曲れば影なゝめなり」
とお諭しになられている。

 佛法、御仏の法、教えが正しく継承されず、逆に誤謬されてゆけば世間も濁り乱れていくとの教え。心と体の健康が密接に関係しているように、人類の心に正しい佛法をいただけば世界も世間も良くなるはず。佛法こそ身体であり、世間(社会)が影であるとすれば、佛法が曲がれば世間も曲がっていく。正しい信仰がなければ正しい世の治め方も、治まり方もないではないか、という。

 だからこそ、お祖師さまは立正安国論を幕府に上奏され、まずは国政を担う方々も含めて正しい佛法、正しい信仰を持つべきであるとお折伏をされた。それが無ければブレてしまう、曲がってしまう、壊れてしまうのではないか、と。

 週刊文春の9月20日号、9月13日に発売されたものを読むと、スクープとして上杉隆氏による『「錯乱」安倍晋三首相の「四人の神」』という記事が掲載されている。安倍氏の辞任会見が12日の14時からであったから、このゲラが官邸に廻って安部氏は辞任を決断したとも思える。そんなショッキングなタイトルと内容だった(そもそも、週刊誌の内容は発売前に様々なルートで関係各所を巡る。そこで様々なルートを通じて押さえられる記事や内容もある)。

 辞任会見当日、週刊文春は既に販売ルートに乗って全国に配布された後であったろう。だから、このまま発売され、今日の時点でも辞任前の誌面と内容のままだ。激動の一週間を過ぎているので、いま読み返すと「いつの話?」という遠い過去のような気分になってしまう。既に各メディアは次期総裁選で一色なのだから。既に、テレビや週刊誌も安倍氏にフォーカスしていない。(意図的かどうかはともかく)

 政治家と宗教団体は切っても切れない縁だそうだが、この記事ではあらためて有名政治家と宗教団体との関係を書き連ねている。吉田茂がカトリック教徒であり、マッカーサーの占領政策と相まって重用されたのは有名な話であり、事実ピウス12世は彼を信頼し、後にバチカンは吉田茂氏を表彰までした。カトリックの日本布教に大いに貢献したとしたのである。現在、総裁選に出馬している麻生氏は、吉田氏の孫であるから当然カトリック教徒。洗礼名は「フランチェスコ」である。

 吉田茂氏のことは出ていないが、上杉氏の誌面では、今ではカルト視されている統一教会の大会に岸信介氏や安倍晋太郎氏が出席していたことや、「角福戦争」と呼ばれた頃には、旧田中派に創価学会、福田赳夫氏側に立正佼成会、真如苑、霊友会などが付いたことなども紹介されている。驚いたのは、「新生佛教教団」についても詳細に書き、石原伸晃氏などの名前を挙げているのだから、これを書いた上杉氏は大丈夫かしらと心配してしまう。

 特定の宗教・信仰を持っていたと断定的に言わないまでも、タイトルからも分かるとおり安倍晋三氏の信仰について書かれている。アロマが好きで、入浴時にキャンドルをたいているので有名な安倍氏だが、宗教団体に関係する「水」を常飲していたという。これは、このインターネットで検索すると膨大にサイトが出てくる「慧光塾」、ライブドア事件やヒューザー小島氏関連の偽装建築事件の人脈にまで通じてしまう日本政財界の暗部、宗教とも何ともつかない教祖・光永氏の主宰していた「慧光塾」と、その主宰者・光永氏の長男が経営する会社から取り寄せた「水」だという。

 文中には、憔悴しきった安倍首相が、「この水じゃなくちゃダメなんだ!」とペットボトルを抱きかかえたと書かれている。私にはそれが事実であるかは分からない。しかし、日本国首相、安倍氏が傾倒する宗教や信仰については、既に何度も建築構造偽装の事件やライブドアの野口氏が自殺した事件からゴシップのように書かれてきたが、私は宗教者として興味を抱かずにはいられない。その刑事的なことや政治的な人脈についてではなく、「人間の弱さ」や神秘主義に傾倒する「人々」や「団体」、その人の「信仰」についてである。私は、しっかりと佛立佛教の見地から判断し、コメントしていかなければならないと思う。とはいえ、事実関係を知るには限りがあるのだが。

 光永という慧光塾の教祖(創始者の松田憲妙然り)は、きっと神懸かり(?)な能力を持っていたか、宗教的なセンスを持っていたのだろう。私はオウム事件の教祖・麻原氏(本名:松本)すら、教団発足当初は普通の人間からすると退化して失ってしまった能力や感性、「宗教的なセンス」を持っていたはずだと思っている。本門佛立宗、というか本当の仏教からすれば、こうした「能力」は大して驚くことではない。ブッダの弟子、モッガラーナは「神通力第一」といわれていた。しかし、ブッダは最終的にはモッガラーナのその「能力」を止め、正しい方法による修養を説かれた。そうした「迷い」から抜け出ることが大事なのだが、事実として普通の人間が失った感覚を持った者がいてもおかしくない。

 しかし、本門佛立宗では、言い方は悪いがこうした能力を「狐狸のたぐい」と言って切り捨てることもある。正しい仏法がなければ、キツネや狸のように霊性が強いといわれる動物と同じ程度のもので、本来の仏教からすれば信じるに値しないと言うのだ。事実、本門佛立宗の歴史上には、いわゆる霊感の強い僧侶や尼さん、ご信者もいたが、「その能力がなくなること、見えなくなることが現証の御利益である」というのが正道であった。私の家系もそういうお折伏を開導聖人からいただいたと伝え聞いている。

 最初は、相手の苦しみが分かり、言わずとも問題を感じてくれ、何らかの超自然的な感覚によって「お告げ」をしたり、「癒し」を施したりしていたとしても、人間の本性「欲」というのは途方もなく大きなものなのだ。いつしか魅力的な教祖も、強欲で、わがままで、気まぐれな暴君になってしまう。天(?)の声と自分の欲望の声が徐々に混同してゆき、当初の霊的な魅力は消え去り、暴走していく。本人自身が不安を抱くようになり、精神が不安定になり、誰も信じられなくなり、恐怖が心を支配するようになる。麻原氏もそうであったかもしれないし、「お告げ」「癒し」を行う多くの霊能力を持った人というのは、こうした落とし穴にはまってしまう。本人も苦しくなり、信じている信者たちも大いに苦しむことになる。

 本門佛立宗の教務は、当然ながら「安っぽい霊媒師」のようなことを言ってはならないと厳命されている。あくまでも、「道理」「文証」「現証」という三証や、「教」「行」「証」に沿い、師弟共に「凡夫」であることを自覚して、正しい仏道修行に則ってご奉公させていただく。

 だから、「占い」などに代表されるものや、「ジンクス」的なものに迷うことを戒めているし、霊感によるいわゆる「霊視」やイエス(キリスト教の教祖)が行った(新興宗教の教祖の多くはこれが出発点だが)という「癒し」や「手かざし」などは驚くに値しないと考えている。そこに「普遍性」を見出すことは困難で、当然信仰するには値しないと考えている。

 記事によると(あくまでも事実だと私は断定しないが)、安倍首相が7~8年前に虎ノ門病院に入院した際、慧光塾の教祖・光永が20日間ほど毎日、夜中に病院に通って看病したという。当時、安倍晋三氏はガンとの疑いをかけられていた。その後、慶応病院へと移り、再検査をしたところどこにも異常が見つからなかったという。この出来事以来、安倍氏の心に光永氏に対する絶大な信頼(信仰)が生まれたというのだ。

 安倍晋三氏の母、つまり安倍晋太郎氏の妻の洋子夫人は、慧光塾を創設したという女性霊能力者である松田憲妙とも親交があったという。後に光永仁義(ひとよし)氏が慧光塾を継承することになるが、この安倍晋太郎氏がガンで病室にいた際にも、晋太郎氏の信任を受けて光永氏が背中をさすると喜んでいたということだった。その後、一年以上もそうしたことを繰り返したという。

 その後、政界の中枢に光永と慧光塾は入り込んでいく。これらは別のサイトで検索してもらった方が早いだろう。

 こうした話は枚挙に暇がない。池口恵観なる僧侶も政界に深く根を張る僧侶だという。この僧侶は安倍晋三氏との深い親交や、どの程度親しくアドバイスしてきたかなどを公言している。週刊文春の記事によると、彼は取材者に対して「晋三さんはウチの信徒といえば信徒です」と語っている。池口という人が何宗の僧侶か私は知らない(「加持」というから密教系であろうか)が、彼の地元は鹿児島で、月に何度か東京へ出てきて、ホテルニューオータニを舞台に政財界の要人を相手に出張の「ご加持」を行っているという。

 光永は2005年に没している。その死の直前まで、同じくホテルニューオータニを舞台にして、政財界から列を為して訪ねてくる者たちに「お告げ」や「治療」を行っていたという。安倍晋三氏は、光永の没後も、慧光塾の後継者と関係を続けていたという。もちろん、簡単に切れるようなものではない。しかし、こうした団体との関係を持っていることが「政治家の甲斐性」として、一定の距離を保ち、自身でコントロールできているのであれば良い(?)のだが、なかなかそうはならない。

 信仰を持つ態度には、四つのタイプがある。正法正信、正法邪信、邪法正信、邪法邪信。正しい法を正しく信じる人、正しい法を間違って信じる人、間違った法を正しく信じる人、間違った法を間違って信じる人。

 当たり前のことだが、正法正信が最も選択すべき道に決まっている。同時に、「邪法正信」こそ最も哀れであるといえる。

 間違ったものを素直に信じている人。オウムの林被告などが頭に浮かぶ。哀れだけれども、自己の判断で行き着く恐ろしい状況は、教祖を恨んでも、自分を呪っても何も返ってこない。結局は、自分本位のエゴ、ドロドロとした欲望が、霊視や霊感、狂った教祖や偏った霊能者などに走らせていることを知らなければならない。

 つまり、こうした政財界の根底に巣くう病巣とは、「お告げ」に群がったり、「治療」を求めたりする人間の、際限のない『欲望』なのだろう。次から次へと有名な霊能力者が口づてに出てくる。「あの人を紹介して」「あの人に会わせて」とやっている間に、抜けられない「闇」に多くの人が落ちていく。信じられるものがない人や不安の多い時代なのだから仕方がないかも知れないが、多くの人がそのまま自分の人生を奪われ、自分の「選択」を奪われていく。いつの間にか思考は停止したも当然で、冷静な判断は下せなくなる。「欲望」「欲望」「欲望」、、、、。

 安倍晋三氏がそうであったと断言するつもりはないが、政財界に根を下ろした「霊能者」たちの活躍について、心から危惧している。つい、私は20世紀を代表する霊能力者であり、政界にも多大な影響を与えたグリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンを思い返す。「ラスプーチン」と言えば、どこかで聞いたことがあると思うが、彼はロシア帝政末期に登場した怪僧、怪物とも評される東方正教会の祈祷師だった。

 1904年、神から啓示を受けたとして突如田舎から大都市・サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に「治療」を施して注目を集めた。帝政末期の混乱期、過渡期にあったロシア。時代の風潮も後押しして、時を置かずに彼は『神の人』と呼ばれるようになった。

 当時、ヨーロッパ全土は空前のオカルトブーム(スピリチュアル・ブーム)の最中にあった。特に、ロシア皇族に嫁いでいたモンテネグロ王の二人の娘、ミリツァとアナスタシヤ(愛称・スタナ)大公妃姉妹は、神秘主義に傾倒しきっていた。次から次に霊能者や自称「神の子」を探して、神秘的な気分を楽しんでいた。その様子は、あの当時の様々な日記に見て取れる。セルビア皇太子(大公妃姉妹の弟)も含めて神秘主義へ傾倒していたことを物語っている。バルカン半島のモンテネグロ。欧州全土をオカルト・ブームが席巻しており、そうした不安が社会不安をさらに煽ってゆくという、第一次世界大戦勃発直前の社会の風潮の一端を知ることが出来る。(私には、こうした間違った信仰や乏しく偏った思想が第一次世界大戦の根底にあると考える。信仰が身体、世間は影なのだから)

 そのような中、大公妃のお目当ての「スゴイ霊能者」としてラスプーチンは発見され、続いて欧州列強の中のロシア、大帝国の皇后・アレクサンドラに紹介された。そこでラスプーチンは、幼くして血友病を患っていた哀れな皇太子、アレクセイの治療をすることになったのである。

 而して、ラスプーチンについての噂は本当だった。とにかく、皇后は、まさに「神の人」としてラスプーチンに絶対の信任を与えるようになる。1905年11月1日には、ロシア皇帝ニコライ2世に謁見し、以後、皇太子の病状が悪化する度に宮廷に呼び出されるようになった。皇帝夫妻は、激動の世界情勢や自国の不穏な空気に不安を重ね、様々な社会的問題や家族の問題を全て解決してくれる「神から遣わされた人」を永らく待ち望んでいた。そこに現れたのが、他ならぬラスプーチンだった。

 ニコライ2世本人の日記には、生々しくラスプーチンの行った「治療(奇跡)」が描写されている。苦しむ我が子、アレクセイのベッドに近づくラスプーチン。そして、彼がアレクセイに近づき、手を当てた瞬間にアレクセイの痛みが和らぎ、スヤスヤと眠りについたことがあったようだ。皇帝夫妻のラスプーチンに対する信頼は頂点に達した。人間とは弱いものだ。その気持ちも分かる。

 ラスプーチンは「皇太子はやがて完全に健康になるだろう、病気を克服して健康になるだろう」と予言・約束した。皇后は、「わたしが心安らぎ、休息できるのは、師よ、あなたがわたしのそばに座り、わたしがあなたの手にキスをして、あなたの幸せに満ちた肩にうっとりと頭をもたせかけるときだけなのです。ああ、そのときはわたしもどんなに気分が楽になることでしょう、、、、」と手紙を書いてラスプーチンに渡すほどになった(この手紙は後に反目した修道士イリオドルが発表して公になった)。

 考えてみていただきたい。恐るべきことに、20世紀に言語を絶する傷跡を残し、戦闘員の戦死者900万人、非戦闘員の死者1,000万人、負傷者2,200万人と推定される第一次世界大戦、あの戦禍の中心にいたニコライ2世と、政治的判断に極めて重要な役割を担った人物であるアレクサンドラ皇后が、一人の霊能者に完全に精神を依存していたのである。それこそ恐ろしいではないか。第二次世界大戦や、その後の不幸な歴史にまで関連する大問題である。

 事実、第一次世界大戦中、ニコライ2世が前線に出て首都を留守するようになると、内政を託されたアレクサンドラ皇后がラスプーチンに全てを相談して人事を動かし、政治を行うようになったのである。ニコライ2世は「私たちの友人(書簡の中ではラスプーチンをこう呼んでいた)」を外して政治的判断することを望んでいたが、皇后は意に介さず、それが絶対的に正しいと思いこんでラスプーチンに全てを聞き、それを皇帝に押しつけた。皇帝は常に彼女の言いなりとなり、最終局面に向けて全ては誤った方向へと突き進む。

 結果的にラスプーチンは暗殺され、皇帝一家も病弱だったアレクセイを含めて銃殺されることになった。こうした神秘主義、誤ったものへの傾倒、特に政治の中枢にいる者たちの迷走は、その人たちだけの没落に止まらず、国家や国民、世界中を巻き込んで恐ろしい状況をもたらすと考えられる。ラスプーチンが死の直前にロシアや皇帝一家の未来を予言したというが、これはシマノヴィチという秘書の創作に違いないとされている。一方、ロシア革命の指導者の一人であるアレクサンドル・ケレンスキーは「ラスプーチンなくしてレーニンなし」と述べていることも付記しておく。

 「ラスプーチン」という姓は古くから蔑称の意味を持っていた。西シベリアでは多く見られた姓のようだが、帝政ロシアを崩壊に導いた「魔人」の名前として、この姓は永らく嫌われ、使われることがなくなった。スターリンの秘書であった「ある人」も、元は「ラスプーチン」という姓であったが、これを嫌って「ラス」を抜き、単に「プーチン」と名乗るようになった。あろうことか、その孫が現在のロシア大統領、ウラジーミル・プーチン、その人である。

 ラスプーチンは突出した能力を持っていたのかもしれない。しかし、それは「狐狸のたぐい」として脇に置いておく宗教的・信仰的素養が必要であった。そうすれば何ら問題は無かった。政治的な混迷や時代の運命は、自ら背負うべきものとして乗り越えれば良かった。乗り越えられないとしても、それは人類の進化や変革と捉えることも出来た。

 子の親ならば悪魔の力を借りても子どもの苦しみを取り除いてもらいたいと思うかも知れない。しかし、それは逆に、結果として愛する我が子の破滅をもたらすばかりではなく、周りを巻き込んで不幸を招くと考えられる。何より「狐狸のたぐい」に運命を左右されていただけだとしたら、何と人類も本人もつまらないだろう。

 世界には、時を待って恐ろしい感性を持った者が出現するのかもしれない。キリスト教のように、それを最初から「悪魔」と断定することは間違っている。「宗教的カリスマ」は街角にもいる。「メシア(救世主)」を待望するようなキリスト教的な教えが、人々を盲目にする素地になっているとも考えられる。

 そうした者に迷わず、本来の「人生」を生き抜くためには正しい信仰が不可欠であろう。ひとたび、このような人物を人生や家庭の中心に据えたら何と不幸だろう。さらに、そうした人物を権力の中枢にいる者たちが重用したら、世界は長い期間その亡霊に悩まされることになる。

 お金も正規の銀行から借り入れる場合と、ヤミ金やサラ金から借り入れるのでは違いがある。後がコワイのはどちらだろうか。200才まで生きる人間はいない。それなのに、結局は、その場、その時の「欲望」によって、誤ったものに力を借りようとして、さらに深い迷いの中に陥っていく。

 正しい信仰、つまり本当の仏教は、こうしたものとは完全に異なる。見える世界、見えない世界の双方を大切にお伝えしながらも、安っぽい霊媒師のような話やお祓いなどはしない。全ては、お祖師さまの教えの下に、上行所伝の御題目をいただいて、自分の口で、身体で、心で感じる、気づくものだから。そうすれば、自分が背負っているカルマは必ず変わる。自ら変えなければならないし、自ら変えられるのである。

 間違った信仰、結局は弱い「人間」を信じているだけでは、迷いを深め、傷を広げ、悪循環を繰り返すだけではないか。

 先日、ある方とお話をしていて、大変勉強になった。その方は、社会的にも大変に尊敬できる方だ。しかし、その方はある大変に有名な霊能者を信奉していたという。霊能者にはじめて会った時、何にも伝えていないのに、次々に不思議なことを言われたという。それ以来、その霊能者を信奉するようになった。様々なことを彼に聞き、献金もし、給仕を重ねたという。

 しかし、ある時に「少し違うぞ」と思い、距離を置いたらしい。ご本人は「その霊能者の近くに深入りし過ぎたからかも知れない」と仰っていたが、その教祖のお金の問題や人間関係で飽き飽きしたのだとう。決別を伝えたその時、別れ際に霊能者から「地獄に堕ちるぞ」と言われ、そしてその時に「もうこの人はダメだ」と思ったという。

 その後が面白かった。そして、その方は「えー、ですから、今では3人の霊能者を用意しております!」と言った。「え?なに?へぇ?」と私。なな、なんと、聞いてみると、「ですから、1人ではおかしなことになりますので、3人の霊能者の方にお聞きして、2人がこっちで1人があっちと言ったら、こっちに行くようにしています」と。思わず笑ってしまったが、なるほど、そういう方もおられるのだなぁ、と感心したのだ。

 いやいや、それは勿体ないですよ、結局は依存していることに変わりが無いではないですか。自分で人生を選択していくということではなくなっています。そんなに外側にレーダーを、しかも3個も用意しなくても良いではないですか。本門佛立宗のご信心をするということは、自分がイージス艦になるようなものです。外付けのレーダーはいらないんです。正しいご信心は、自分の口と身体と心を使って御本尊に御題目をお唱えし、その中で自分自身に『気づき』をいただける、『サイン』を次々に現してくださるから、「なるほど、これはこういう意味だ」「そうか、これはこうだ」と自分でサインをいただき、自分で気づき、自分で選んで人生を進んでいける、それが大事ではないですか、とお話をした。

 今回は色々なことを書いたが、うまく伝えられない。新しく「佛立エクソシスト」というカテゴリーも作ってみた。「エクソシスト」とは「悪魔祓い」という意味であり、映画で有名。本来、本門佛立宗では「悪魔祓い」という概念はない。しかし、近年イタリアではエクソシストが増え続けている。ヨハネ・パウロ・2世も3度エクソシストを行ったという。このカテゴリーで、現代人の間違った「エクソシスト」、霊的な考え方についても、私の経験と本門佛立宗の教えを通じて語っていきたい。なぜなら、こうした霊的なもの、占い、スピリチュアリティーに興味を持つ人が多く、そして迷っている人も多いからだ。

 いずれにしても、信仰は大切だが、変なものは信じない方がいい。特に、政治家や財界の方々。迷うのは分かりますが、みんなのために止めていただきたい。そして、できれば本門佛立宗のご信心をしていただきたい。実践してもらいたい。よほど、良い政治や経営ができると思う。

6 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます。清優です。今回のブログは本当に示唆の富んだ内容で、ブログとは思えないほどです。またメールしますが、私も不思議な(怪しい否、インチキな)霊能者という人に会った体験をしました。詳しくは書けませんので、お会いしたときにまた。

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

清優師、
ありがとうございます。
分かりにくいかと思ったのですが、一気に書き切ってしまいました。書こう書こうと思っていて書けなかった、ラスプーチンのことや、この日本社会に浸透しつつある潜在的神秘主義に警鐘を鳴らせたら嬉しいです。まだ頭にあることの10%も書けていませんが。余り深い話は私も命が惜しいので止めます。
今後、時間があれば、御法門にはなかなかならないような、神秘主義、エクソシスト(ヴァチカン)、憑依について、チベットの怪僧ドルジェタク(ドルジェ・タクデン)、タントラ仏教(密教)について書いていきたいと思います。

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます!

先日もお話しさせていただきましたが、東京にある有名な浄土宗のお寺で、厄祓い、厄除け、各種ご祈願が小札:5千円、大札:1万円、特札:2万円と区別されていて、私の知人がそこに年4~5回通っているのだけど、その知人は悪くなる一方とのこと。

その区別されている時点でどうかと思いますが、年に4~5回も通ってる御信者さんの
悩みを聞いて上げる窓口はないのかしら?と不思議になります。

そういうお寺がありすぎて、悲しくなりますよね…そして、そこに依存してしまう人も悲しい。

そういう話をお聞きすると妙深寺に出逢えたことの有難さを痛感いたします…

その知人もできるだけ早く妙深寺にお連れしたいとご祈念させて頂いております。

匿名 さんのコメント...

 ありがとうございます。信翠です。いつも楽しみに拝見しています。ここまで深く、佛立の視点からスピリチュアルブームに切り込んだものは、これが初めてではないでしょうか?知らないことばかりで、ありがたかったです。一体いつこんな勉強されてるんでしょう?本当に頭が下がりますというか、あらためて脱帽です。続きが楽しみです。
 

Seijun Nagamatsu さんのコメント...

Yaccoさん、
ありがとうございます。そうだったね、僕も驚いたが超有名なお寺が「お祓い」などをしていることや、それに料金別のサービスを設けていることなど、本当にビックリしました。勉強になった。
何とかしたいです。コメント、本当に有難う。今日、突然電話しましたが、急ぎの用件ではなかったのです。元気そうで安心しました。

信翠師、
コメント、ありがとうございます。
一度、ゆっくりとリサ・ランドールについても話をしたいです。仏教僧にとって、物理学者から学ぶことは計り知れません。信翠師から本を送っていただいて、本当に感謝しています。
ありがとうございます。

匿名 さんのコメント...

いつもながら、これもすごい内容ですね。ありがとうございます。最近家内がこのBLOGを読み始めていて、これは昨日プリントアウトして、職場で読んでいたそうです。そしたら職場の同僚にもっていかれちゃった。読みたいと。ありがたい展開です。ロータス07.

今日は飛行機、明日は電車

今日は飛行機を使わせていただいて、明日は小倉駅から新幹線、京都駅でサンダーバードに乗り換えて敦賀、敦賀で北陸新幹線に乗り換えて長野へ向かう予定です。 小倉から京都は591キロで148分、京都から敦賀は94キロで52分、敦賀から長野は353キロで110分だそうです(乗換案内さんが教...