今日は、大震災のことについてお話をしました。御講師方にお話することと、一般のご信者の方々にお話することは異なります。ちょっと休憩して頭をリセット。いや、基本的には同じなのですが、やはり、ニュアンスが少し違うと思うのです。
私は、今回の大震災を、宗教者・佛立教務として受け止められているかを問いかけました。そう、佛立教務は宗教者です。宗教者とは、「宗教」、つまり、辞書ですら「経験的・合理的に理解し、制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。」とあるように、この事態について意味や価値を見出さなければならないのです。
ローマのベネディクト16世が少女の問いかけに「分かりません」と即答したのには深い配慮があるとしても、宗教には宗教としての意味や価値の見出し方があります。その違いこそが宗教たる所以となります。
古来から、人智を越えた事象を目の当たりにして仏教徒も仏陀の教えを語り伝えてきました。お祖師さまも、災害にあたって様々な御妙判をお認めになられて、その意味や価値をお教えくださいました。
しかも、今回の大災害は、事象のレベルが違います。地域限定でもなく、被災者が限られてもいません。ほんの数十年前であれば東側諸国の災害など西側には伝わらない、西側の大災害も東側諸国の人々には正確に伝わらないという状況がありました。しかし、今は違うのです。
私たちが直面しているのは、阪神淡路大震災とも違う特別の意味をもった大災害です。このことを、宗教者・佛立教務、佛立菩薩として、厳しく受け止め、向後のご奉公に向かわなければならないと思います。
天と地の柱です。柱が弱り、柱が少なくなれば、その家はもろくなります。揺れます。倒れます。
今の社会に教化折伏のご奉公をすることは無論のことですが、「人を教化せんと思えば、まず我が身を折伏せよ」です。誰かが悪く、みんなが謗法と言う前に、正法を護持する者が懺悔改良してゆくべきであるように思います。
私も、自身の甘さ、迂闊さ、愚かさ、怠りを、ふかく恥じています。
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