お看経とは、佛立宗のご信者さんであれば当たり前のようにしっていることだが、「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)と御題目をお唱えすること」である。この修行こそ、末法相応の根本行であるから、私たちは何はなくとも御題目をお唱えする機会をつくり、我が身のためはもちろん、他の人のためにまで御題目をお唱えさせていただこうとするのである。
お香炉が置いてあるのは、たとえば百本祈願をしている方がいたら、自分のお線香を用意しておられるであろうから、その方が自宅でも、お寺の本堂でもお線香を立ててお看経できるようしているのである。妙深寺は、開門が午前6時半、夜は10時まで完全に開放されているので、誰彼と無くご信者であればお参詣をいただき、本堂で時間の許す限りお看経をしていただくことができる。
このお看経。本当に有難いと、つくづく思える。いくら論理的に説明されても、人生の苦悩、心の葛藤は何ら解決しない。人間の浅知恵で心の深層に触れるような説を学んでも、自分自身の「心」というものは一向に何ともならない。虚しさ、恐ろしさ。もし、「信」がなければ、あっという間に過ぎ去っていく「時間」も、漠然と広がる「空間」も、これはちっぽけな存在の「私」にはどうしようもできない。自分の苦しみや悩み、家族の苦しみや悩み、友人をはじめ、見聞きする人々の苦しみや悩みに対して、具体的な行動、精一杯の努力や実際の支援は出来る限りするにしても、如何ともし難いことも多々ある。
その私たちの苦悩を、御題目を口唱することによって、静かに、ゆっくりと、取り除かれていく。その御題目口唱のバイブレーションは、永遠の宇宙の中に広がり、満ちていって、我が身、我が心、あらゆる人々、生命に溶けていくのである。
御題目をお唱えすることによってしか叶わないことがある。特に、「心の闇を照らす妙法」と教えてくださるとおり、心の闇は、ご信者であろうとなかろうと、「信心」を取り戻すことによってのみ果たされるのである。そして、「信とは口唱」という。「信心」とは「口唱」という「アクション」なのである。「口唱こそ信心」なのであるから、あらゆることはそのままに、御宝前に座って、まず御題目をお唱えするという「アクション」を起こすことしかないのである。
ある方角を向いて、定まった時刻に礼拝せよというのではない。人知れぬ山中を駆けめぐれと言っているのでもない。智慧を使えと言っているのではなく、何かを学べと言っているのもない。それらはむしろ意味が無く、遠回りであるとさえ言う。そういうことが仏教であるわけがない。仏教は「癒し」ではなく、「安心(あんじん)」なのである。高価な壺や財布に入れるお守り、厄除けの札を求めろなどというのは、まじないや気休めでしかない。本当の人生の苦悩を知れば、それがどれだけ意味を為さないことであるか分かるだろう。
御題目口唱は有難い。そのことの意味を、幼い頃から聞いてはいたが、私にも分からなかったのだ。今から15年前の、先住のお怪我の時に、少しだけ気づくことが出来た。気づかせていただいた。そのことを思い起こすために、今月14日、先住の祥月ご命日に併せて「佛立魂15年 一万遍口唱会」を開催させていただくこととなっている。あの時の事を思い返しながら、御題目を一万遍お唱えさせていただこうと思う。私も、あの時から、遠く心を置いてきてしまったように思うから。信心を改良させていただきたい。
いま、柴田芽衣ちゃんや仁科富美子さんのお助行はもちろん、自分のご信心を見つめ直すためにもお看経をさせていただいているが、それに欠かせない「グッズ」がある。それは、お線香を入れる箱と、先住のお拍子木。お線香を入れる箱は、素敵なアジアンテイストの箱を寺務所の望ちゃんが買ってきてくれて百本のお線香を入れて使わせていただいている。お線香を持ち歩くなんて、とても素敵だし、有難いと思う。本山の御宝前、本庁の御宝前でも、長松寺でも、どこでもお看経出来るから。
お拍子木には先住のお名前が彫られている。たぶんご自分で彫られたのだと思うが、感慨深く使わせていただいている。それに建国寺で作っていただいたお拍子木のカバーを付けさせていただいてケースに入れて持ち歩いている。
少し気を休めながら、お看経をさせていただける嬉しさを噛み締めている。本当に「有難い」と御宝前に御礼しながら、御題目をお唱えしている。
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