「世の中がイヤになった。人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と供述しているということだが、またしても多くの人が殺され、傷ついてしまった。なんという痛ましいことだろう。なんという恐ろしいことだろう。背筋が凍るとは、このようなことだろう。
5月28日の「立正安国論 上奏750年」にも書いたが、ブラジルの御導師が仰ったとおりだ。この国の、人の、心の闇(病み)が噴き出している。今年、相次いで通り魔的な殺人事件、上記と同じような理由、無差別で全く関係のない人間を殺害したり、傷つけたりしようとする事件が相次いでいる。
心の闇。心の闇が広がっている。
心の中には、恐ろしい地獄の心、修羅・鬼の心、貪りの餓鬼、畜生がうごめき、誰の心にも巣くっている。それらを追い出そうとしても、取り除けるものではない。日々夜々に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏という十界の、特に恐ろしい世界の者たちを、御題目の信心によって教化し、調伏しておかなければならない。何も信じるものがなかったら、心の闇は広がっていく。
いま、社会が信じられない、人が信じられない、ましては仏教など信じられないという人が増えていて、そういう「信じられるものがない」という状態こそ、人間にとって最も恐ろしい状態だと思う。あっという間に恐ろしい世界に食べられてしまう。堕ちていってしまう。
裁判になれば、「心神喪失」などと、いろいろな精神鑑定の結果が取り上げられてたりするかもしれない。しかし、果たしてそうだろうか。
人間は捨てたもんじゃない。人間は仏になれるのだから。その可能性があるのだから。人間だからこそ、だ。しかし、その人間は鬼にも、修羅にもなる。動物が動物であるのと比べて、この人間の素晴らしい可能性と恐ろしいまでの愚かさはどうだろう。だから、その人間に対して、ブッダは教えを垂れた。「信」を取り戻せと仰った。
「信を以て入ることを得たり」「信は道の源、功徳の母」「信の一字を詮と為す」。あらゆる人に「信」を問うべき時なのだろうか。自分を省みながら、そう思う。いま、天が、泣いている。地が、吠えている。
仏教的にいえば、世界はつながっている。人と人もつながっている。突然変異の変な人が事件を起こしているということではなく、人と人の輪の中で、心の闇が確実に広がっているということだと思う。だからこそ、心の闇を照らすための「光」に一人一人がならなければ。
2 件のコメント:
>人間は捨てたもんじゃない。人間は仏になれるのだから。その可能性があるのだから。
希望がいまここにある、ということを、とにかく苦しみの海におぼれている人たちに、一人でも多く、いやそのすべてに伝えたい、と、伝えられる人間になりたい、と、切実に。
ありがとうございます。
earlybirdさまの仰るとおりです。本当に、そのように思います。ありがとうございます。
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