2008年12月26日金曜日

ジタバタしてはいけない

 先日来、危機感を募らせている。
 サブプライム・ローンに匹敵する規模の危機が、また世界を震撼させるのではないかと思う。そうした話が出ている。もし、それが現実のものとなれば、来年の正月から春、夏から秋まで、本当に厳しい事態になるに違いない。その可能性は極めて高い。
 100年に一度の危機といわれて久しいが、そのインパクトの大きさをどれだけ自覚しているか。ここ最近、アメリカの年末商戦の結果は40年ぶりの水準といわれ、それは、つまり1969年(昭和44年)当時の同じ水準であるということだ。
 工場を経営されている方の話をお聞きすると、前年同月で数十万個以上の発注が先月は20個しかなかった等々、来年の春まで各企業は生き残りを賭けた戦いをすることになると思う。政治の世界では、永らく巨大な企業中心の経済システムを信奉し、支援してきたから、中小企業の経営は大企業の生き残りの犠牲を強いられ、壊滅的な状況に陥るかも知れない。そこに、さらに追い打ちを掛けるような金融危機が訪れたとしたら、本当に100年に一度の大恐慌が日本を襲うことになる。
 いずれにしても、現下の社会状況の中で、売上が3分の1になることは至極当然のことだ。それで当たり前だと思わなければならない。
 ここでジタバタしているだけでは戦えないし、勝てないし、乗り越えられない。「人事尽くして天命を待つ」だから、最大限の努力を、出来る限りのことは全てする、という気持ちで行動することが大切だろう。しかし、他人のせいにして、イライラして、ジタバタしているだけでは、意味がないというのだ。
 この時代背景の中でも強い企業がある。売上を伸ばし、厳しい中でも活き活きと仕事を進める経営者や企業がある。ほんの少し前まで「インフレ」と言われていたが、すでにデフレに突入。経営者にとっては舵取りが極めて難しいだろうが、先を読み、冷静に、方向を定め、人々を鼓舞して進んでいる人たちもいる。ユニクロの一人勝ちなどと言われているが、数年前の苦難を乗り越えての今日だろう。
 今年最後の御法門は、こうした世相を背景にして、ご信者ならではの生き方、語り合い、支え合い、励まし合いが出来るようにならなければならない、と御法門をさせていただいた。
「世のなかをゆめと見なしてのりのとも さめてのうへのものがたりせん」
 よく世を見渡せば、御仏が「世は皆牢固ならざること、水沫泡煙の如し」と仰っているとおり。「水沫泡煙」とは「バブル」のことだ。掴めない、ボヤッとした煙のようなものを本物だと思って追いかけるような世の中、バブルに浮かれて財産や人生そのものを崩壊させる人々。よく見てみれば、世の中は夢や幻のようなもの。そう教えていただいているのが私たち仏教徒、佛立信者であるから、そう思って、夢から醒めた者、人間の本業に目覚めた者として生きなさい、語り合いなさいと教えていただく。
 時代が厳しい、状況がめまぐるしいと、どんどん視界が狭まり、目先のことしか見えなくなる。結果として、先が見えなくなり、大切なもののプライオリティーがつかなくなり、人間関係のトラブルが増え、人への思いやりがなくなる。言い方はぞんさいになり、そっけなくなり、自己中心になり、上辺の嘘が増える。口先で転がして何とかなるようなものではないのに、口先だけの言葉や思いつきの言動で、悪循環に入っていってしまう。
 確かに、厳しい。辛い。苦しい。先行きが不透明だから、どうしても不安になる。心配にもなる。しかし、だからといって、どうなるものでもない。どうしたら不安から逃れられるか、どうしたら安心できるか、乗り越えられるか。
 こうなれば、ジタバタしても仕方がない。自分の果報の中、流れの中、縁の中で、最大限の努力をして、調子の良い時には、いつも御法さまからの御縁をいただき、チャンスをいただいてきたことを思い返す。そして、この難局に、視界が狭まらないように、心が乱れ、言動が定まらないということのないように、御法さまからのお見守りやお導きがいただけるように、本物の信心を進める。その覚悟、その生き方が、佛立信者の真骨頂であり、妙不可思議の御利益をいただくコツだ。ここが勝負なのだと思う。
 御教歌「むかしより味方のこゝろそろはずに 軍に勝ちし事はあらじな」
 どんな難局も、味方の心が揃っていないで勝てるわけがないではないか。味方とは誰か?敵とは何か。
 疑心暗鬼になって孤独になったり、くっついたり離れたり浮いてしまっては不幸になるだけだ。こういう厳しい時代だからこそ、「異体同心」を作り上げることが大切なのだ。味方の心がバラバラでは、どんなに良い作戦を立てようが、将軍がよかろうが、センスがあろうが、勝てた試しはないのだから。
 御教歌「世の中をうらむはおろかかひもなし 苦楽はおのが報ひ也けり」
 このような世の中になって、今さら、愚癡を言っても始まらない。自屈になって、あきらめたり、極端に開き直っても仕方がない。悪くなっても、それは自分の蒔いた種、ジタバタして幻の中に逆戻りしても仕方がない。ご信心をして、眼が開いたはず。そうであるならば、じっくりと対処する、人事を尽くす、御法さまにお縋りし、お任せし、御縁を開いていただく、ご弘通、菩薩行のために、お力添えをいただけるようにするしかない。必ず、現証が顕れる。間違いない。
 日博上人は、次のように書き遺されている。
『不平を言うな、血が濁る、と言いたい。感謝を知らない人間ほど始末におえぬものはない。一切何事にも不平を言わず、ひたむきに人生を歩んでいる人があったとしたら、それだけでもその人は偉大な心の持ち主である。不平が人を呪い、世を怨み、周囲を暗くしてゆく、奪うことを知って、与えることを知らない人間に不平はつきものである。(乃至)
不平は病である。病を作り出す元である。世の中は思い通りにならぬものだ。天下を取った徳川家康でも「人生は重荷を負うて坂を登るようなものだ」といった。(乃至)
常に相手の行動を善意にとって、お目出度いといわれても感謝合掌の徳を積むことである。(乃至)
己の心温かなるとき、必ず周囲も温かくなる。己の心冷たいとき、必ず周囲も冷たくなる。(乃至)
世の中にも、他人にも、悪いところ、困った人がたくさんあるのは事実である。しかし、それはそれとして、それであるからとて、その上になお自らの苦しむ因を重ねて、ご丁寧に二重の苦を受けるのは猶更愚かなことである。いやいや、それさえも実は、世々生々の自らの業の報いであると悟って、功徳生活に入らせていただこうというのが仏教、法華経信仰である』
 開導聖人は次のように御指南されている。
「娑婆の夢に迷ふべからず。菩提の道、怠るべからず。懈怠、不参、謗法といふは、みな迷ひに引かれ、悪縁の深き故也。今度は此の悪縁を思い切ること、娑婆信行中の第一の肝要也。これより外に大事なる御法門はなき也」
 娑婆の夢に迷ってはならない。人間の本業は菩薩行、そこから離れてはならない。怠ってはならない。娑婆の夢に逆戻り、そっちに引きずられたら、参詣も減る、お参詣が出来なくなる、結局愚癡や不平が出る、人を怨み、妬み、ご信心や御法に傷をつけることになる。つまり謗法を冒す。これらは、すべて世の中の悪い縁に引かれに引かれてしまっているからに違いない。
 ここで、この悪縁を思い切って、ここが肝だ、要だと思って、そこからブレないようにする、これ以上大切な御法門はない、と教えていただいている。
 百年に一度の大恐慌だろうと、何だろうと、
「欲なくばこわい物なし信あれば 人を助くる楽しみもあり」
との御教歌をいただいて、本当の楽しみから離れず、社会の中でも、会社の中でも、あらゆる人間関係の中でも、活き活き、強く、明るく、正しく生きていけるように心がけたい。私たちには何でもできる。必ず出来るのだから。
 本当の楽しみ、本当の生き甲斐を見つけた者同士の、ご信者ならではの集まり、励まし合いをもって、「お寺に行くと元気になる」「みんなに会うとやる気が起きる」と言われるように、佛立信心をしている者らしい語らいを心がけたい。
 とにかく、ジタバタしてはいけない。為すべきことを為せ。

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