でも、今ごろ「完成」というのは申し訳ないこと。本当は1日に間に合わなかった。トホホ。
妙深寺では、先住松風院日爽上人からの伝統で、寺報は義納金を納められているご信者宅に全て行き渡るようにとご奉公させていただいている。妙深寺の義納金(ご信者の義務としてお寺に奉納するもの。妙深寺では500円。その他は随喜納金と言って、それぞれの随意・随喜によって奉納いただく)からしたら、一部100円ちょっとする寺報だから高い。でも、先住ご遷化後、特に力を入れて製作しているのが現在の「妙深寺報」だ。
これにはコンセプトがある。「ご信者さんの数だけヒーローがいる」をモットーとして、とにかく住職や教務は背後に回ってご信者さんの声を前面に出す。読んでいただきたい人も、「いま、お寺に対して斜に構えておられる方」「現在のご信者さんの次の世代の方」と想定している。なかなか、分かりやすい文章などは書けないのだが、「一から始める佛立信心」と「今さら聞けない佛立信心」と考えれば、こうしたコンセプトは誰にとっても有難いことだと思う。住職や教務の写真をたくさん載せていても閉じられちゃうし、難しい文章や「こうしなさい」ということを並べても掴めないと思うし。御有志された方々のお名前なども載せていない。
こうして考えるとユルユルのように思われるかも知れないが、妙深寺には毎月1日にこの「妙深寺報」とは別に「役中テキスト」を発行している。この役中テキストというのは、お寺でご奉公してくださるようになった方々に対して発行しているもので、この中にご弘通ご奉公の方向性や御有志についての詳細なご披露をするようにしている。私の「班長さん ありがとうございます」という文章もここに掲載している。
この他、御講附(「おこうづけ」と読む。特殊用語だから、また先生にお漬け物と間違われそうだけど)という各教区毎に毎月の御講席日程を掲載するプリントがある。受持御講師によっては御講附の裏面を使って「受持通信」をされている方もいる。
いずれにしても、コミュニケーションが大事だと思う。御宝前の間の奥に厳かに置かれている冊子などもいいが、「妙深寺報」はリビングやキッチンにでも置いてもらいたい。とにかく、読んでいただきたいのだ。僕の文章もへたくそだし、いつも同じようなことを書いていると思われるかも知れないが、お許しいただいて、ご信者さんの「菩薩の声」を読んでいただきたい。
それと、もう一つ。私は、日博上人が昭和20年代から発行されていた「一実」という新聞を事細かく読ませていただいた。清水泉洋師が現存する一実を本にまとめておいてくださったから、50年後の私たちにも読むことができる。それを読んでいると、あの当時の佛立宗、妙深寺、日博上人のご奉公ぶりが頭の中に浮かんでくる。その情熱、その想い、そのご奉公の有難さを感じることが出来るのだ。50年経っても色あせていない。
日博上人は、50年後の教務さんが、こんなに「一実」を読んでいるのをどのように思われているだろう。発刊のご奉公をされている当時は、そんなことは思いもよらなかったかもしれないが、現実、私たちは何度も何度も読み返して、自分のご奉公に活かすことが出来ている。
だから、私たちの妙深寺報は、現在の妙深寺のご信者に対してだけ発刊しているのではないと思う。今の寺報は1ヶ月もしたら「先月の寺報」ということで片隅に追いやられてしまうかもしれない。そう考えれば贅沢だし、こんなに一生懸命作らなくてもいいのではないかと思われるかも知れない。しかし、そうではない。きっと、きっと、何年後か、10年、20年、30年、40年、50年後の人たちが、僕たちが一実を読み返しているように読んでくれるかもしれない。一生懸命ご奉公して、一生懸命やっていたら、必ずそういう日が来ると思う。そのためにも、手を抜くことはできない。頑張って、頑張って、贅沢で、ちょっと素敵な寺報を発行している。
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