ラージギールの親会場に行き、村の子どもたちと一座の法要が終わりました。
仮本堂の撤去などに時間がかかり、親会場の全容はまだお見せできるレベルに到達していませんが、今日も工事を続けています。
何とか1階正面の壁面だけでも美しく整えたいと思っていましたが、いつもながらそれもちょっと間に合いません(汗)。
それでも子どもたちは元気に集まり、この場所で学び、人生をより良く切り開いてゆこうと思ってくれています。
いつもながらハチドリのひとしずくですが、全世界で尊ばれている『妙法蓮華経』が説かれた聖地、旧・王舎城(ラージギール)にほど近い村で暮らす人びとと共にご奉公を進めます。
仏教の説く偏見や差別のない、あらゆるものが一つとなり、生き生きと人間の可能性を追求する世界を夢見て。
昨日とは一転、打って変わって、ここには極貧の人びとたちが溢れています。
いや、見えないだけで、どこにでも、おられる。
この世界に生まれてこなかった方がよかった、この世界は苦しみばかりだと、毎日そう思うしかないような生活があります。
首に草の入った袋をかけられたままの痩せ細った馬。
テリトリーを守るために吠え続ける犬。
人間だって同じように逃げ出せず、縛られ、毎日が希望も何も通用しないような厳しい生活があります。
そこには貧富の差、もっと奥には宗教が生み出した差別や偏見、絶対的な格差があって。
自由と平和と平等なんて、いったいどこにあるんですか?と真剣に問いかけられる。
夜は清朋師が知り合ったロヒットさんをはじめ、ナーランダー大学の学生の方々に来ていただいて会食しました。
日本から勉強に来られている唯一の日本人・村越くんをはじめ、ペルーからの留学生マニさん、ブラジルからの留学生・フェルナンド君と、本当に有意義な時間を過ごすことが出来ました。
インド哲学、仏教哲学、宗教社会学。
マニさんが言う「エンゲージ・ブディズム」とは言い換えれば「プラクティカル・ブディズム」で、全く私たちのいただいている教えそのもののことです。
話題は仏教の歴史から哲学、根本分裂、アヒンサーと多岐にわたり、いくら時間があっても足りないくらいでした。
3月3日、京都の日蓮宗の本山・本法寺で講演させていただきますが、テーマは「空飛ぶお坊さんの仏教講座 ~海外から再発見する日蓮聖人の教え~」となりました。
彼らと話をしていてあらためて思うのは「本化の仏教(プリモーディアル・ブディズム)」は「いつでも出来る」「どこでも出来る」「一緒に出来る」という普遍的なものであること。
観念的なものではなく、能動的な、実践的なものであること。
「結果が見える」ということも大切なポイントです。
法華経の説かれた霊鷲山を見上げるこの場所で、こうした会合が出来ることも極めて有難いことでした。
歩みをゆるめず、止めずに精進します。
親会場の建設は途中ですが、必ずや現地の子どもたちが未来を切り開くステキな学校になります。
今日も一日、ありがとうございました。
ありがとうございます。
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