2005年4月28日木曜日

仙台の松島海岸より

本当に申し訳ありません。ブログへの書き込み、やはり毎日は出来ませんでした。いま、私は仙台の松島海岸の朝焼けの中で、このブログを書いています。
ニューヨークまで、一気に走り切ることが出来ました。ニューヨークでは、グランド・ゼロでの一座の法要も無事に奉修。また深夜3時まで撮り残した内容を収録。朝、慌ただしくJFK国際空港に向い、飛行機に飛び乗って帰国しました。帰国後、そのまま成田から電車で仙台に。秋田県応護寺で門祖会のご奉公があり、妙深寺のご信者さんと仙台で合流するためでした。東北新幹線で仙台、仙台から東北本線で松島海岸へ。何と、ニューヨークから26時間で到着。妙深寺のご信者さんの大拍手で迎えていただき、本当に感激しました。また、このブログで、少しずつラジオ番組の内容、旅の感想を書き込んでいきます。今のままで終わるわけには行きません。「本門佛立宗」というアイデンティティーが伝わらなければ意味がありませんから。また、しっかりと続けますので、読んでくだされば有難いです。

2005年4月25日月曜日

マーチン・ルーサー・キング・Jr

世に知られるキング牧師は、後に「ダディ・キング」として知られるマーチン・ルーサー・キングの息子です。もう、この時点で、僕はキングに少しだけ共感してしまうのですが、彼は悩みながらも父と同様に牧師としての人生を歩み始めます。そして、本人が望む、望まないに関わらず、キングにしか出来ないような課題、為すべきことが何であるかを知るのでした。
リンカーンが奴隷解放を宣言したにもかかわらず、アメリカの深南部では根強く人種差別が残っており、「ホワイト」と「カラード」と書かれ生活空間すら共有させない風習が残っていたのでした。食堂、トイレ、手を洗う場所、バスの座席に至るまで、まるで白人と黒人はすみ分けをされていたのでした。人間として、同じ権利を持つことが出来なかった、させなかったのでした。当時の黒人には選挙権すら与えられていませんでした。これが、わずか50年前のことです。
モントゴメリー事件という、疲れた初老の女性が、バスの中で腰掛けた白人シートに、運転手が猛烈に恫喝したことから、キング牧師は黒人の権利を獲得する、平等の権利を主張する運動のリーダーへとなっていきます。
彼や、彼とは別の団体も、このアメリカに巣くう病巣を変えるため、「人種隔離廃絶運動」「選挙人登録運動」を推進していきます。しかし、同時に、それを進めるための方法にも、様々な意見が出て、黒人の運動は激流のような流れを、どのように、どの方向に、上手に導いていけるかが、最も大きな問題となったのです。一触即発、過激な方法で「公民権」を獲得しようとする勢力、政府の転覆や社会不安をもっともっと煽ろうとする勢力が次々に現れてゆきました。
その中で、このキング牧師は、黒人や白人勢力の双方からいらだちや罵声を浴びながらも、「非暴力」「無抵抗」という主張を展開し、暴発寸前の黒人感情を、歴史に残る形、永遠に尊敬される運動へと導いていったのです。これは、キング牧師がインドで植民地支配のイギリス帝国と交渉していたマハトマ・ガンジーを敬愛していたことから考え出され、提唱・実行されたのです。
ところが、このキング牧師もまた、マハトマ・ガンジーやJFKと同じように、1968年4月4日、午後6時前後、黄昏のこのモーテルのバルコニーで、右のあごと首を狙撃され、命を落とすことになったのです。

暗殺の現場

「ブッディスト・トランス・アメリカ」は、ふと考えてみると「暗殺現場を巡る旅」のようになってしまっている、とディレクターのケンジくんが言っていました。確かに、お坊さんが出ているだけでも難しい番組設定です。その上、旅の内容が重たい場所ばかりで暗い話ばかりしていては仕方がありません。一生懸命に、分かりやすいお話をしよう、楽しくしよう、と思っているのですが難しいものですね。でも、やはりこの旅は、いまや世界の中心ともいえる超大国アメリカの今を、歴史に残る出来事や事件、人や場所で区切って、「仏教的に」どのように見えるかを対話形式で伝えていくのですから、少々シリアスな現場に足を運ばなければならないでしょう。いま、目の前にあるモーテル。花輪の飾られているあのバルコニーで、キング牧師は暗殺されたのでした。

ロレイン・モーテル

言ってしまったら、怒られるかも知れませんが、私はある視点から、キング牧師やマザー・テレサ、そしてマハトマ・ガンジーを尊敬しています。それは、彼らがある理想をもって邁進し、何事にも恐れず、信念を持って生きたことによります。異なる信仰に支えられた人ですら、こんなに素晴らしい人がいるのですから、佛立宗の教務はこれ以上の信念と実際の「行動」が求められているのだ、と。それを、思い知るために、そして宗教を超えて尊敬できる活動家として、このメンフィスではキング牧師の暗殺現場である、「ロレイン・モーテル」を訪れました。

ミシシッピー

新車に乗ってメンフィスの市街地に入りました。メンフィスは、雄大なミシシッピー川を中心として発展しています。この街は、エルビス・プレスリーゆかりの地であり、何よりキング牧師の暗殺されたロレイン・モーテルのある街。私は、二度目の訪問になりました。
このメンフィスには、テレビ番組の収録で訪れたのです。その番組はお正月の特別番組として制作された「トランス・ミシシッピー」というもので、ミシシッピー川の源流であるミネソタ州のレイク・ベミディジという小川をスタート地点として川を下り、遙かニューオリンズを超えてメキシコ湾まで縦断するというものでした。最初、この途方もない計画は、喫茶店でヒロミさんと話をしていただけの、たわいもない夢物語でした。しかし、そこから番組となり、約2週間にわたってジェットスキーで6000キロを超える旅をすることになったのでした。この番組、この旅も、大変な思い出になりましたが、その時にメンフィスを訪れたのです。記憶が完全に戻りました。
幅600メートル以上あるミシシッピー川を下り、メンフィスに近づくと大きな橋がありました。左側にはメンフィスを象徴するピラミッドがそびえていました。そのメンフィスの街を一度通り過ぎて、そしてUターンする形でピラミッドの真下にある桟橋までジェットスキーとボートに座って入っていったのでした。
その記憶が、メンフィスの、昔、川の上から、ジェットスキーに乗って見上げていた橋の上を通りながら、思い出したのです。そして、市街に入ってからも小高い丘を探して、ミシシッピー川を見下ろしました。懐かしく、暖かく、ミシシッピー川を、もう一度見ることが出来て、嬉しかったです。

タイヤの亀裂

私たちは、リトルロックからメンフィスを目指して、ルート40号を東へ約140マイル走りました。ここまで既に走っている距離は、2454マイル。つまり、3926キロ。フォードのエクスペディションに5人が乗っているのですが、ちょっとタイヤをチェックしてみるとフロントの右タイヤに大きく亀裂が入っていることが分かりました。いや、これも「チェック」ではなくて、実はパッと見て偶然に発見したのでした。
私たちは恐る恐る運転しました。というのは、アメリカのハイウェイはバーストしたタイヤの破片がゴロゴロと転がっていて、それをよけることが何より大事なほど。それだけ道路上のゴミなどでタイヤを傷つけ、バーストしてしまう車が多いということです。バーストとは、タイヤのパンクのことですが、高速で走っている最中に起きてしまうと、まさに「爆発」のような状態になってしまうのです。ハンドルも取られてしまいますし、非常に危険です。
私たちはレンタカー会社のハーツに電話をして対策を練りました。タイヤ交換をしてもらおうとハーツのお店を探さなければなりません。そして、とにかく安全運転でメンフィスまで行けば、メンフィスの国際空港近くのハーツで車ごと無償で交換してくれるということになりました。やっとメンフィスに到着し、ハーツに駆けつけ、4000キロちかく走ってくれた車にお別れをして、新しいエクスペディションに交換しました。
この車、今までの車よりも新しく、ほとんど新車の状態。サスペンションもタイヤも新しく、交換できてみんなで喜びました。この車であと1112マイル。ニューヨークまで1772キロです。

2005年4月22日金曜日

リトルロック・セントラル・ハイスクール

リトルロックでの私の最大の興味は、セントラル高校でした。ここで、壮絶な人種差別問題を語る顕著な一例が示された。その模様は全米に放映され、さらに公民権運動は大きく広がっていったのです。実は、この高校に寄る予定などはなかったのですが、道を間違えてしまいまして、3時間も遠回りをした果てにリトルロックの市街に入ることになったのです。せっかくリトルロックの市街に入るのであれば、「セントラル高校に行きたい」と急遽訪れることにしました。
この「リトルロック」という名前を全米の人々の心に刻んだのは、公民権運動の初期に起きた黒人生徒の公立高校編入をめぐる「リトルロック危機」。その舞台がセントラル高校でした。
アーカンソー州で最も有名な人といえば、ビル・クリントン米国前大統領です。私たちは、アーカンソー川沿いに最近建てられたクリントンセンターを横に見ながら、ダウンタウンから3マイルほどの高校を目指しました。そう、クリントン大統領は、このセントラル高校の卒業生でもあります。

「アメリカで最も美しい」と絶賛されたセントラル高校の校舎。当時のアメリカ社会は奴隷解放令が出ていたとはいえ、特に南部では根強く人種差別が残されており、この美しい高校は事実上「白人のためだけ」の高校となっていました。ダンバー高校という黒人専用の高校もまた開校されましたが、その建設費はセントラル高校の4分の1でした。
1954年、最高裁で「人種分離教育は違憲」という判決が出され、全米黒人地位向上委員会(NAACP)はダンバー校から成績優秀な9人をセントラル高校に転入させる手続きを取ったのです。
黒人の生徒を受け入れることに反対した市民とPTA。その高校に入学することを許された黒人の高校生9人。市民評議会は「彼らの入学を許したら、いずれ我々の子供と結婚する黒人が現れることだろう。異人種間の結婚は病気が懸念される」というものでした。わずか50年前のことですが、この現実に歴史に刻まれている恐ろしい言葉が信じられないくらいです。この男子生徒3人、女子生徒6人の黒人生徒は、数千人規模で集まった反対派が囲む中、プレッシャーと命の危険もかえりみずに登校しました。州知事は州兵を動員して、実力で黒人の生徒の登校を拒否。その後、白人至上主義者とNAACPとのにらみ合いが続き、緊張の度は増すばかりだった、と。その中で勇気ある行動をし、平等に教育を受ける権利を表明した黒人生徒9人は、今でも「リトルロック・ナイン」と呼ばれ尊敬されています。
結局、アイゼンハワー大統領は州知事に指導をしましたが、それも功を奏さないため、1200人の武装兵士を校内に駐留させ、黒人生徒が学校に通えるようにしたのでした。現在、フィリピンがイラク戦争に派遣した兵士の数が200人。それでも撤退を考えているというニュースもありますが、その6倍の兵士が学校に駐留していたのです。アメリカにとって、どれほど大きな「危機」だったか分かります。
テレビを通じて、彼らが多くの群衆に罵られ、押し戻されながら登校する姿が全米に放送されていました。その衝撃が全米中に伝わり、公民権運動はさらに加速していくのでした。今のリトルロック高校の芝生の上からは想像もつきません。過ぎた日の恐ろしい出来事も穏やかな空気に包まれて夢のようです。
この9人の中の1人が卒業する際、かのキング牧師も卒業式に参列し、心からお祝いをしたそうです。

母とネパール

  来週の水曜日、11月11日にネパールへ出発します。 84才の母がネパールへの渡航を決意し、母と共に妙深寺ネパール別院、ネパール平和題目塔、カトマンズ親会場、そして大規模土石流洪水の被災地で、ご奉公させていただきます。 昭和17年、生まれて間もなく実母を亡くした母は、岡野町の妙...