2011年4月16日土曜日

月花を見てくらすべき時にあらず 世に益あらん ことをつとめよ

平成23年4月11日 教区御講 御法門

皆さま、ありがとうございます。

今、妙深寺の桜は満開を迎えまして、今年も見事に咲き誇っております。

今日は4月の11日で、あの3.11の東日本大震災から丸々1ヶ月を迎えたということでございます。皆さまにとりましても、ニュース等でご存じの通り、今なお原発事故の状況というのは収束には程遠い状態でありまして、総合的に情報を集めましても、私たちがマスコミで見聞きする状態よりは極めて厳しい現実が日々に広がっているようですし、まだ進行しているということであります。

不安を抱えておられる方、何か不透明な、心晴れない毎日を過ごされておられる方もおられると思います。特に被災地で避難生活を送っておられる方々は、本当にもう大変な思いをしながら、全てを失いつつも頑張っておられる。妙深寺でも、皆さまのご協力の下、何度か被災地に行かせていただきました。

夜の気仙沼の街を走り抜けました。特別に能力のない人間にも、あの瓦礫の山の脇を走り抜けると、家を探してさまよっている亡くなった方々が見えるはずです。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と、お唱えしながら走り抜けないと通れない。そんな恐ろしい状況でした。とても日本の姿とは思えない。そんな状況でございました。

いま、言上させていただきましたが、地震、津波、その被害・被災だけではなく、原発の事故が続いているわけですが、あの原発事故の中に本門佛立宗のご信者さんが頑張ってくださっている。4月1日の月始総講が終わった後、今度はその福島の原発に近い地域にまだ残っておられる○○○○さんという方のお宅に行ってまいりました。息子さんが原発の現場で働いて、あの中に入っている、と。

何度かご紹介しましたが、「息子が命を懸けて、国のため、世界のために頑張っているのに、母親の私が逃げるわけにはいかない」ということでございました。何とか励ましたいですし、そんな状態のご信者さんがおられるのに、ただ傍観して見ているわけにも、私はいかない、と思いまして、とにかく顔を見て、手を握って、一緒に御題目を唱えられたらいいし、○○さんのためだけじゃない、日本のため、世界のため、子どもたちのために、あの原発から一番近いご宝前でお看経させていただきたい、と。そう思って行かせていただきました。

小さなお宅に一人ポツンとお住まいの○○さん。そこにご宝前が御座いました(涙)。

すぐに息子さんのことをお話になられ、その一人息子の○○さんが「4歳の時に主人が亡くなったんです」と。それ以来、女手一つで一人息子を育ててこられたとのことでした。4歳ですから、そこから幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と出されて、あんな大きな会社にも入ることができた、自慢の息子だった、と。それが、この大災害(涙)。いま、日本の中で最も危険であろう場所に、その一人息子さんがおられるのです。

あの事故現場には350名くらいの方々がおられるとのことですが、上司の方が「お前は母一人、子一人だから、帰ってこい」と言ってくださった。そして、一度だけ帰ってきてくれた。

帰ってきてすぐに、「母さん、心配いらないよ、全部洗ってきたからね」と言われた、と。そして、「僕がしゃべったら、変なことが伝わったらダメだから、事故のことは一切言わない。ただ、一日食べるものがポテトチップス2枚という日もある」と。私も別の方から「みんなで雑魚寝しながら、あの現場でずっと戦っている」と聞いていました。そのとおりだったのですね。

お母さんは一生懸命ご飯を作って、ご飯を二膳、お味噌汁も二杯、食べながら居眠りを、コクリ、コクリ、としてました、と。本当に憔悴し切っていて、自分の息子だと気づかなかった。この事故が起きる前に家を新築することになっていて、設計図まで書いておられた。で、あの子が、「母さん、八畳間でいい?」と聞くから「え?なんの話?」って言ったら、「いや、お母さんの部屋だよ」と。「あんた、八畳間なんてあたしには大きいよ(涙)」と言ったと。お母さんから、そういう話を聞いていたのです。

この大震災、この大事故で、それも出来なくなりまして、いま家族はバラバラ、お孫さんたちも疎開されている。お母さんが持って行くものを用意していると、「母さん、あめ玉一つ、入れないでくれ。俺一人食べるわけにはいかない、全員に渡るはずがないから。食べ物は入れないでくれ」と。そうして現場に帰られたということを聞いていました。

一緒にお看経をして振り返ると、わっと泣かれて(涙)。今まで抑えておられたものが出て、涙に変わったと言ってくださいました。本当にお助行に行ってよかった。そう思っております。

皆さんはどうお考えかわかりませんが、本当に深刻な事態が進行しています。この前も新聞のコラムで涙が浮かびました。家を失った人、家族や愛する人を失った方々が、自分が落ち着く、我が家の居間で、ゆっくりくつろいで、家族と団らんしている、そう想像してみよう、あるいは日本の海は豊かな漁場は漁港を賑わす、そして子どもたちは何の心配もなく、海辺で遊んでいる、と。しかし、ふと気づくと、その光景がもう、何年、何十年と、この九十九里や、銚子や、あの美しい海に戻ってこない、という現実に気づく。本当に恐ろしいことです。

私たちは被害者意識はものすごく強い。凡夫というのは人のせいにする名人ですから。東電が悪い、政治が悪い、全部悪い、と。「誰だ、こんな世の中にしたのは」「なんだこの対応は」と。だけど、それを認めて、それを流して、それを使って、そこで豊かさとか安全を受け取っていたのは私たちです。思えば思うほど、その豊かで安全なものを、子供たちに受け継げなかったということが、どれだけ罪深いか。私たちは被害者意識よりも、一分の加害者意識を持って、新しい国づくりや新しい人間の在り方や暮らしの在り方を考えていかなければならない。

4歳の子が、お母さんを津波で流されて、お父さんと避難所生活をしておられて、その4歳の子が、「パパ、僕も流されてママに会いたい。僕、波になりたい」と言っていたという新聞記事を読みました。「お母さんは波にさらわれて、星になったんだよ」とお父さんが説明したら、「僕ももう一回流されたい」と言ったと。こうしたことを聞くに付けても、涙が出ます。

何を気にすることもなく、美味しいお野菜や美味しいお魚を食べて、あるいは海で遊んで。原発事故などこれほど多くの被害が出ている現在では、子供たちが、そういう暮らしができるかというと、本当に難しい時代、そんな世界にしてしまった、なってしまった。心から申し訳なく思うんです。そうしたことを胸に、魂に刻んで、これからご信心、ご奉公させていただきたい。

福島では、すでに地域差別が始まるのではないかと心配しておられました。自分の両親に「結婚するよ」と言うと、「出身はどこ?」「福島」「ええ!?やめなさい!放射能の影響が子どもに出たらどうするの!?」と言うような、そんな恐ろしい事態がこれから起こってくるかもしれない、と。本当に、私はもう、80キロでも100キロでも、3ヶ月間だけでも、全世界、全国のお寺を開放して、支え合って、避難していただきたい、と、つくづく思っております。

私の妻も被曝して、癌になっていることも考えても、外部被曝と内部被曝の圧倒的な違いは、つくづく分かっているつもりです。妻は、130キロの地点で被曝したのですから。本当にそう思います。こうして言っていて、それで原発近くの子どもたちが、無事に、70歳くらいまで長生きして、健康でいてくれて、「あの時、妙深寺の住職は、まあ臆病で、うるさかったね、逃げろ、逃げろ、危ない、危ない、なんてねー!」と言われても、もう笑って「ごめんなさーい。僕は臆病でしたー」って、泣いて喜んで言います。「ああ、すいません、怖くて心配性でねー」って謝ります。それよりも、「直ちには、健康には害がありません」と言っていて、後で「出ました」となった時に、一体だれが責任を取るのか。僕は、「あいつは馬鹿だった、うるさかった」と言われても、全然平気です。とにかく発表以上に、自分の命、自分の子供たちを守っていただきたい、という風に、つくづく思います。

いずれにしても、たいへんな事態を迎えて、私たち佛立信者がどうあるべきか、本当に心して、信心を改めていただきたい、と。

今月の御教歌を頂戴いたします。
御教歌に、
「月花を見てくらすべき時にあらず 世に益あらん ことをつとめよ」

開導聖人お示しの、御教歌でございます。
末法悪世のこの大変な時に当たって、よもや呑気に構えて、安逸を貪って、信心の改良もしない、趣味や道楽に命を費やしてるなんて、そんな生き方はするな。今こそ、本当に心を一つにして、佛立信心の実践、人のために御題目を唱え、出来ることを探し、教化折伏、お助行に励む。それこそが真の支援活動、いま為すべきことである、と、厳しく、「愚かな振る舞いを慎め」とお戒めをいただく御教歌であります。

再拝いたしますと、「月花を見てくらすべき時にあらず 世に益あらん ことをつとめよ」。

開導聖人の御教歌をいただきましたが、この末法にあって、しかも、誰もがこの無常を痛感している中で、それに思いが馳せられなかったら、本当に愚かです。今、桜は満開。素晴らしい。開導聖人こそ超一流の文化人であり、歌人です、明治天皇陛下の御歌の指南役でもあった高崎正風さんが感服した長松清風日扇聖人なのですから、誰よりも、月の趣きの深さ、花の美しさ、麗しさを知っておられた。

しかし、この御教歌では、「月花を見てくらすべき時じゃない」と。開導聖人は、ここにものすごい皮肉を込められています。人生の本質、本当に命を受けた者が感じなければならないこと、無常、永遠に続く命のこと。仏の教え。それを知らない人間が、エセ文化人になって、風流ぶって、月や花を眺めて暮らしたところで、何にも感じられない、そんな場合か、と。そんなふりをするな。もっとその前に、為すべきことがあるであろう、と。

開導聖人は、本当に月と花の美しさを知っているんです。そこから学べることもわかっておられて、この御歌を詠まれてるんです。世の中がすごく平和な時、まあ、平和でした。だからそんな時は、本当に為すべきことを知らずに、「私の趣味は短歌よ」「囲碁よ」「鎌倉彫りよ」「私はこれよ」「あれよ」と。もう、いろんなものがある。本を買ってきて、「今日から俳句でもやろう」と桜を見る。「ああ桜、ああきれいだな、桜だな」なんて。なんじゃそりゃ、です(笑)。人生の本質、この世の姿を知らない者が、風流ぶって、文化人ぶっても仕方がない。あなたは何も知らないじゃないか、と。

「ストレスが多い」「だから、リラックスが大事」「リラックスが大事だから、趣味もやったらどう?」。まあ、趣味は大事です。でも、この方程式はおかしい。ストレスが多い、リラックスが大事、だから趣味が大事。趣味をしたらどうか。法華経の価値観からすると、それは間違ってる。何でか。

人生の、本当に大切なことを知らないから、ストレスが多い。リラックスできない。集中力も無くなる。継続力も無くなる。大事なのは、何が、あなたの人生にとって一番大切か。何を目標に生きていけばいいか。それを知らなければ、その芯を立てなければ、永遠に仕事も中途半端で、家庭生活もストレスで、イライラするし、フラフラする。心を散漫にリラックスしているだけではダメです。生きる目的もないのに、趣味や風流じゃない。

カール・ユングの言葉をちょっと紹介すると、こういう言葉があります。読んでみると、まるでお祖師さまの御妙判の解説のようです。カール・ユングといえば、歴史上大変な功績がある方です。フロイトと並ぶ深層心理学者、心理療法士。鬱病や統合失調症(分裂病)、あるいは自律神経失調症、パニック障害、更年期障害と、いろいろな精神疾患がありますが、そうした方々と向き合い、人間が抱える心の闇と向き合って、それを乗り越える術を探求し続けた方です。最後はインドまで渡って仏教を学んだ。

色んな心の病を抱えている人を見てきて、ユングはこういう言葉を残した。
「人間にとって決定的な問いは、おまえは無限という状況に関わっているか、である。それが人間にとっての基準となる。無限の重要さを知っている時、人は自分の関心を不毛で、無意味な事物に向けることが出来ない。人間はただ、人生にとって本質的なるものを把握したときにのみ、有効な生活を送れる。そして、もし本質的なるものを持っていないとき、その人の生涯は台無しになる」。

「台無しになる」と、こう結んでいる。これは何を言っているのか。「おまえは無限という状況に関わっているか」「これは決定的な問いだ。人間にとっての」。さて、「無限」ってなんですか。「永遠」って。まさに仏の教えではないですか。

私たちの一生はものすごく短い。本当に、わずかです。草露の命。またすぐに闇の中、土の中に帰ってかなきゃいけない。必ず、です。

だけど、御仏が教えて下さってるのは、この宇宙全体の命。あるいは、私たち自身の本当の命。過去世があって、現在世があって、未来世がある。「無始已来謗法罪障消滅、今身より仏様身に至るまで」、永遠に続いてる、と。これが無限の教えです。無限を知るということ。

無限に関わるということは、過去世からの罪障を消滅して、未来寂光浄土に行かせていただくということ。「願わくは、生々世々菩薩の道を行じ」とはこのことです。

無限という状況に関わる。それを出来てるのか出来てないのか。関わってるのか関わってないのか。これが決定的な問いだ、と。

他の人達が、それを知らずして、本当にこの僅かな期間の、水にこう、ポッと出てくる泡のような、目先のことに捕らわれて、ワーワーワーとしているというのは、ユングの言葉を借りれば、本当に「その人の生涯は台無しになる」。

本質的なものというのは、まさにご信心であり、この御題目によって人様を救おう、人助けがしたい、それこそ人間の本業だ、とこういう事を、しっかり、心でぐっと掴むということです。

本質的なものを把握した時にのみ、有効な人生になる。そうすると、不毛で無意味な事実に関心を向けることが出来ない。本当に有難いことです。ああ、一生懸命、永遠の仕事をこの無常の、わずか数十年の命を使ってさせて貰おう。罪障消滅、積功累徳。

月や花は素晴らしい。でも、無常を知らない者が、永遠も知らない者が、その美しさや麗しさを知る事なんて出来ない。

だからまず、人生の本質を知ることだ。世の為、人の為、みんなが幸せに、平和でありますように。子どもたちの為にも尽力していこう。力を使っていこう。力を尽くしていこう。

まさにユングのこの言葉は、お祖師さまの御妙判を拝見していたのではないかと思うくらい、お祖師さまの教えです。少し長くなりますが、拝見させていただきたいと思います。素晴らしい、流れるような文章で御座います。美しい日本の自然と、その中に生きる私たちを教えていただきます。

『暮れ行く空の雲の色、有明方の月の光までも心をもよほす(催)思ひなり。事にふれ、をり(折)に付けても、後世を心にかけ、花の春、雪の朝にも是を思ひ、風さはぎ(戦)村雲まよふ夕にもわするゝひまなかれ。出る息は入る息をまたず、いかなる時節ありてか毎自作是念の悲願をわすれ、いかなる月日ありてか無一不成佛の御経を持たざらん。昨日が今日になり、去年の今年となる事も、是期する処の余命にはあらざるをや。

総て過にし方をかぞへて、年のつもるをば知るといへども、今行末にをいて一日片時をも誰か命の数に入るべき。臨終既に今にありとは知りながら、我慢偏執、名聞利養に著して妙法をとなへたてまつらざらん事は、心ざしのほどむげ(無下)にあひ(愛)なし。さこそは皆成佛道の法とはいへながら、この人いかでか佛道にものうか(懶)らざるべき。いろ(色)なき人のそで(袖)にはすぞろ(漫)に月のやどることかは』云々。

かように御妙判くださってる。
これは何を仰ってるか。流れるような花の春、雪の朝。美しい自然ですよね。でも、その中で、本当に大切な生き方が出来ない、御仏の教えを忘れてしまってる、そんなことになったら、どんなに美しい自然でも、人生でも、もったいないではないか。もし、目先の物事に、我慢偏執、名聞利養に著しておったら、どんなに麗しい月の光も、その人の袖の中に宿るわけ無い、映るわけがない、分かるわけがない。まさにこの御教歌の御心です。

このお手紙の最後の結びを拝見いたしますと、
『三界は安きことなし。猶火宅の如しとは如来の教へ、所謂諸法は幻の如く、化の如しとは菩薩の詞なり。

寂光の都ならずばいづくも皆くるしみなるべし。本覚のすみかをはなれては何事かたのしみなるべき。願くば、現世安穏・後生善処の妙法を持つのみこそ。今生の名聞、後世の弄引なるべけれ。すべからく心を一にして南無妙法蓮華経と、我も唱へ他をも勧んのみこそ、今生人界の思出なるべけれ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。日蓮』
かように御妙判下さってる。

まるで、火事の家の中で火事に気づかず、目先の玩具に夢中になって危険を察することめない、ただ遊んでいる子どものようだという法華経の御法門。この世の中は不安や恐ろしいことが多い。でもそれにも気づかない。よく見渡せば、寂光浄土で無ければこの世は苦しみばかりの様に見える。だからこそ、目先のことではなく、現世安穏・後生善処の、この御題目をお持ちして、我も唱え、人にも勧める菩薩行こそが、唯一、この人間界での思い出だと思い定めて、生きなさい、生きてゆきなさい、と。まさに、無限の状況と関わりなさいと仰ってる。

今は、月や花を愛でる時じゃない。私たちは、今、突きつけられたのです。自然界からも、この大宇宙からも、人類は。

だからこそ、私たちが気づかなきゃいけない。

開導聖人の御指南をいただきますと、
『しかるに、信者に種々あり。柿の甘、渋に譬へる。かげひなたの雑(まじ)り信者。純金の金むく信者等、御利生の有無云々。(中略)。信行ほどの楽しみはなし。信行に怠る人は、まだ味ひのわからぬ人也。人を助くる道と思へば我も助かる。御法の為に身を労するも、それが真の楽しみとなる。故に、二世安楽』云々。

かようにお示しで御座います。
ご信者さんにも、いろいろな方がおられる。ご信者さんだから素晴らしいとは、中々やっぱり言えないんです。外側から見たら、どんな信心してるのか分からないもの、教務もそうです。まあ、見破れるくらいなら可愛いもんです。外側は、繕えるから。みんな。

それを開導聖人は甘柿と渋柿に例えておられます。食べてみないと、どっちが甘柿で渋柿か、混ぜたら分からなくなる。

渋柿とは何かというと、ご信者さんの中で、裏と表のある人だ、と。本音と建前を分けている人だ、と。

一方で甘い柿がある。おいしい。それは純金…純金ていうのは「混じりけがない」ということです。つまり、本当に、素直正直に御法門をいただいて、それを、我を挟まずに実践する。人生で、ご信心ほどの楽しみは無いんです。信心に入ったら、幸せなんです。私は、つくづく、何を言われようと、幸せです。信心を怠る、菩薩行に励めないというのは、まだ味わいが分かってないだけです。味わってください。

本当に命を輝く、こんなに意味のある、意義のある、価値のある命の使い方はありません。ですから、この大難困難に当たってこそ、それに気づいて。

「人を助くる道と思えば、我も助かる」。本当の支援活動は、持ってる人が持ってない人にお金やモノを与えるというものではありません。それも大切ですが、持ってない人でも手をさしのべて何かさせていただくのが真実の仏教徒です。なぜか。それは、すべて自分に返ってくる。人のためにすることでしか、自分は幸せになれない。

苦しんでいる人を救えば、自分が救われるのです。本当にそれが真の人生の価値です。真の喜びです。真実の道です。この生き方、この道に励ませていただくことほど、嬉しいことはありません。

御題目がある。本当の支援活動は日々の私たちのご奉公です。誰もが、全員、被災地に支援に行く必要はありません。義援金も、支援物資をお送りすること、とても大切ですが、本当に、私たちの毎日の暮らしの中の信心、お看経、お講参詣、お助行のご奉公、お教化ということが、今回の人類を襲った巨大な不幸から学び、気づき、改良して、本当によりよい社会をつくるための、真実の支援活動。私はそう確信してますし、それが佛立の教えです。

この御教歌に「つとめる」とありますが、他の御教歌に。

「一人だに すゝめんことぞ つとめなる しなぬいのちの あらんかぎりは」。

まだ、命がある。その命がある限り、たった一人の人にでも、この御題目をお伝えする、み仏が為されてい永遠のお仕事、無限の願いのお手伝いを「ご奉公」と呼ぶのです。それに、命ある限り、つとめ、励む。

そう、いい口癖を持ってほしい。「一緒にお寺行こうよ」「とにかくお看経させてもらおうよ」 「罪障に負けちゃダメだよ」「ご信心させて貰ったらどう?」「ありがたい」「ありがとうございます」。こういう良い言葉を口癖にして、この末法の中でご奉公いただきたい。

先ほども言ったように、ご奉公とは永遠のお仕事です。なぜなら御仏は御経の中で、「私には永遠に思ってることがあって、それにつとめている」と仰ってる。「毎自作是念 以何令衆生」と。あのお経文です。

私は、片時も忘れることなく、これを思っている。この宇宙にバランスを取り戻す。その為に人間一人一人を仏の道の中に入れていく。「以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」。まさにその言葉。

み仏は、無限の、永遠の、お仕事をされている。そのお手伝いを私たちがさせていただくのを「ご奉公」という。つまりは無限という状況に関わる。

どうか、それが出来てなかったら、ユングに言わせれば「その人の生涯は台無しになる」のですから、目先のことに、バブル、あぶくのようなことに、囚われて、無駄に命を使うことがないように、とにかく、今は、そうやって暮らす、過ごす時ではありません。世の為人の民になる菩薩行に励みなさい。

どうかご信者の皆様は、苦労の多いこと辛いこと、沢山これからあるかも知れませんけども、何度も申しますが、もう一度、ここで、ご信心を本物にしていただきたい。ご奉公を、本当に、まごころのこもったものにしていただきたい。決心・決定・改良を心掛けていただきたい。基本に立ち返って、今こそご信心することです。

何度も申しますけども、いままでは準備期間だった。練習期間だった。もしかすると御法門も右から左に流れていたかもしれない。でも練習を怠っていた者でも、練習に励んでいた者でも、本番が来てしまった。始まってしまった。

ですから、本当に、もう遊んで、うかつに過ごしている場合ではありません。どうか本物のご信心を実践して、菩薩行に精進することが大事。

かようにお教えいただく御教歌でございます。

故に御教歌に、
「月花を見てくらすべき時にあらず 世に益あらん ことをつとめよ」

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