2011年4月18日月曜日

砂押さんのお見送り

法華経常住一切三宝諸仏諸尊、この室に来臨し給い、一切の障礙を払い、哀愍救護を垂れ知見照覧なさしめ給え。茲に、蓮師相伝秘要の対境、本地本法本門法華経本門の御本尊を奉安し、恭しく壇を設け、礼をもって謹んで営み奉る処の法要の一座。

去る平成二十三年四月十四日、行年七十三歳を以て、この娑婆を忍土の一期となし、命終し奉る処の霊魂。

 本門佛立宗妙深寺 所属信徒 通称 砂押定男。

霊や無始已来謗法罪障消滅 出離生死証大菩提。

故人は、昭和十三年十一月二十七日、父 政(まさ)、母 ツマの長男としてその生を受く。

娑婆無常草露の風は、故人幼少の頃より身の上に吹きつけ、若干二才の時母を亡くし、さらには六才の齢に父までをも亡くされたる。

かように二人の実の親を失い、後に姉や伯父・叔母の元に身を寄せ、人知れぬ苦労の中で育まれたりしと聞く。

やがて故人は青年期を迎えると共に上京し、染物工場にて勤め始められるも、貧しき中、やっとの思いで団子を買ったとは、昔を語られし故人の思い出なり。

その後、旋盤工の技師として新たに道を歩み始める中、最良の伴侶たる、益子女と出会う。益子女は、妙深寺信徒 大川ノブ女の美容院に勤められし折り、既にノブ女より教化を受け、公私ともに師弟の仲とならん。このノブ女の知人を介して定男氏を紹介、やがて天然熟し、結婚の婚儀を挙ぐることとなる。

ノブ女は、妙深寺初代住職日博上人の妹君、斉藤幾子女の教化子。仕事よりも法城の護持、御弘通ご奉公を第一とせられん清信徒也。この姿を拝せし益子女は、故人定男氏がお寺ばかり一生懸命になっては、生活が成り立たないと懸念せしも、故人もまた、ノブ女より教化を受け、本門佛立宗妙深寺の信徒となる。

日博上人ご遷化後、長松清涼師が妙深寺第二代住職を継承されるや、ある日、先住が砂押家にお助行に見えられたる。砂押家は当時借家住まい。三尺の狭き場所に小さな御戒壇を建立されたる様をご覧になり、「ご法様をこんな奥まった狭いところに押し込んではダメだ!大きな御戒壇を求めなさい!」とのお折伏をいただく。定男氏・益子女、共に「狭い部屋にどうやって大きな仏壇を置くのだ?」と思えども、教務や他の信徒の計らいで早速に大きな御戒壇を建立されたる。以来、毎朝四時半になれば、同旭教区、新川喜三郎氏が来られ「ありがとうございます」と朝参詣の将引を受ける。近所では、「一体、あのお店は何がありがたいんだ?」と評判になることもあり。今思えば、信心から逃げよう、遠ざかろうとせん両夫婦の心を、教化親ノブ女が見通せしが故ならんや。

かつて岡野町にありし妙深寺、雨が降ると川が増水し、本堂の畳があがり水浸しになること度々見舞われ、いつしか故人は益子女の憂慮する心とは裏腹に、仕事を休んでまでもお寺に駆けつけ、お寺を守られ、お寺の為、ご奉公第一の人となられたり。

やがて先住日爽上人や白川邦輝氏からも度々声を掛けられ、壮年会、一八会でのご奉公、他寺院への団参を通じ、お寺に最上の安らぎの場を覚えられたる。坂本妙正師より本堂ご宝前のお盛物、お給仕の手ほどきを厳しく教え込まれ、今日に至るまで妙深寺掌典部部長として、後続者の育成にあたられたる。

また山口賢爾氏、新川喜三郎らと共に、妙深寺三ツ沢の境内地を整地され、木を切り、本堂や橋のペンキ塗り、補修作業、何でもされ、現施設部の礎・初代とも言えしそれらのご奉公、枚挙にいとまなし。

人の面倒見が良く、また何とも言えぬ愛嬌、誰からも好かれ憎めぬ人柄にて、多くの人に慕われたるは、お辞儀の仕方一つから教えられし先住日爽上人の厳しき中にも慈悲に満ちたお折伏・育成が為せしものか。

常に「先住、先住」と言い、幼き頃に亡くせしご両親を先住に見られしか、また兄のように慕われしか、この妙深寺が故人にとって自分を愛し育て、家族のように厳しくも叱ってくれる、まことの家と見られたらん。 

然れど、無常の風は凡慮には量れず、貴賤貧富もえらまずは祖訓なり。昨年より俄に病を覚え、医師より一年の宣告を受けしも、お寺参詣を何よりの楽しみとせられ、また人のためのお助行へ足繁く通われ、また同信の祈願助行もあり、定業能転・増益寿命の現証を受けられたる。病床にあって夢に見しは、先住や壮年会と京都へ団参に行きし日の楽しき思い出。満面の笑みを浮かべられしと聞く。

さりとて出る息は入る息を待たず。先住日爽上人のご命日、そして父政(まさ)氏の祥月命日と同じ日を撰み、平成二十三年四月十四日、七十三歳を一期と定め一天安祥として本涅槃妙に帰終す。その相やあっぱれ佛立信徒の手本とすべき、見事安らかなる最期と感得す。

今その功徳を鑑み、また後信の範たらんことを顕彰せしめんがため、授与法号して、
本朗院法勲妙益日定居士と号す。

いま我等が唱え奉る、妙法口唱の功力を以て、寂光の本宮に接収引入なさしめ給え。

「妙法蓮華経と者、上は悲想の雲の上、下は奈落の炎の底までも、皆この光明に照らされて、一切の群生、諸々の苦患を逃るるものなり」と。

経に曰く「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」「於我滅度後 応受持此経 是人於仏道 決定無有疑」の文。

高祖曰く「日蓮は日本第一の法華経の行者なり。日蓮が弟子旦那等の中に、日蓮より後に来たり給ひ候らはゞ、梵天、帝釈、四大天王、閻魔法皇の御前にても、日本第一の法華経の行者、日蓮坊が弟子旦那なりと名乗って通り給ふべし。此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥土にては燈となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮艮の廊にて尋させ給へ。必ず待ち奉るべく候」と大慈大悲大恩報謝。

惟時平成二十三年四月十八日 本門佛立宗 清光山 妙深寺 住職清潤 言して曰す。

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