2011年4月10日日曜日

私の受け止め方

いま、佛立教講に、信心が問われていると思います。

こうした大難に当たり、その意味をご信心で受け止め、ご信心で行動を起こす。それは、どれほど大切なことでしょう。

昨日、約30年来の友人たちと久しぶりに会うことが出来ました。若い頃の私はいい子とは真逆の不良でした。家庭裁判所で「お父さんの職業は?」と聞かれ、母が「お寺の住職です」と泣いていたのは忘れられません。何が気に入らないのか、足りないのか分かりませんでしたが、得体の知れない何かが腹の底にあったのだと思います。中学、高校と、母は何度も学校に呼び出され、警察に迎えに来てくれたのも母でした。凶悪な犯罪や卑怯なことをしたつもりはありませんでしたが、スポーツに出会わなければ完全に道を外れていたかもしれません。父や母には、本当に苦労をかけました。

こんな話を聞いて失望されても仕方ありません。事実は変えられない。ただ、そうした道のりが、今となってはご奉公の糧になっていると感じます。暴走族の集会に息子さんを探しに入っていくのも、極道の方とご信心のお話をするのも、少し義侠心や勇気の必要な事態でも、若い頃に経験させてもらったことや、先輩が体で教えてくれたことが役に立ちます。

とにかく、いま、厳しい事態に多くの方が苦しんでいるのを目の当たりにして、一人の人間として、佛立教務として、一信者として、考えています。

「千年に一度の大災害」と言われていますが、これを佛立信心で捉えると、どのような意味を持つとお思いでしょうか?今、末法に入り、何年を経ているでしょうか?

平安や鎌倉の頃、当時の中国暦の計算では、永承7年(1052年)に「末法」が始まったと認識されていました。お祖師さまが開顕された御本尊にもそのことが明記されています。一般的には、釈尊が入滅したのは西暦紀元前543年。現在から換算すると2554年を経ていることになります。1500年説、2000年説などかありますが、どちらにしても、いまは末法という時代に入ってから千年を経ていません。そこに、千年に一度の大災害、大難というのです。私たちは、生きてそれに向き合うことになりました。これには大変な意味があると私は受け止めています。

ご宝前に向かいながら、ご信心で教えていただく。すると、今回の、地震、津波、原子力発電所の事故という大災害は、2つの側面で捉えられると気づきます。

まず、この未曾有の大災害は、ある地域に限られた災害ではない、ということ。

地震や津波だけであれば、不幸なことながら地域が限られていたと言えたかも知れません。しかし、もはや、放射性物質は地球を一周して韓国にも到達しています。米国やソビエトが原水爆実験を繰り返していた「人災」とは異なり、今回それは「天災」として起こりました。3つの災害を合わせれば、被災者は東北や関東北部の方に限ることが出来ません。さらに、他国の方に申し訳なく思いますが、放射性物質の飛散や流出によって「日本人」という枠にも限られなくなりました。いわば「世界」「人類」全体が、今回の大災害の被災者となったのです。明らかに、スマトラやチリやオーストラリアの地震や津波の災害とは異なる意味を持っています。

そして、もう一つは、メディアの進化によって人類が情報を共有する時代であるということ。人類すべてが、この痛みや被害を共有しています。もし、この百年、いや、この数十年の、インターネットや携帯電話、情報デバイスの進化やインフラの整備がなければ、これほどまでに、全人類が一つの大災害を知り、情報を共有することは出来なかったでしょう。今だから、大災害は、人類全体の大災害となり、事実、全人類が被災者となったのです。

これを以て、これを思え、です。

佛立信心で捉える。走り回って、身体が壊れても、家を失い、家族を失い、愛する故郷から離れざるを得ない方々を支援しなければなりません。しかし、同時に、こうした大自然や大宇宙の法則、その深い意味を、真の仏教徒として捉え、行動に移してゆかなければなりません。

ご信心で見据えてゆけば、今回の大災害が、末法最初、最大の大災害であることが分かります。つまりそれは、この小さな星に住む人類、今回の宇宙、今回の娑婆世界が体験する、末法の私たちが経験すると説かれていた不可避の大災害でした。このことの意味を、佛立教講は思い知り、心得なければなりません。

全人類に与えられた末法最初、最大の大難・試練に当たり、本化の流類として、本当に苦しむ方々を支えるためにご奉公させていただくしかないのです。それが真の佛立教講であり、真の佛立菩薩です。

今までは、練習期間や準備期間だったのです。これから、本番が始まるのです。いや、もう本番は始まってしまったのです。いい加減な練習をしていた者や、このご信心の本質を知らない者にとっては、厳しく、険しく、難しい局面となります。

同じように刑務所に入っていても、無実の罪で囚われていると思って収監されていることほど、苦しいことはありません。意味が見えなければ、人生は不当に辛く、理不尽に哀しく、余りに残酷で、さみしいものです。

厳しく、険しく、孤独な道。しかし、これほど意味や価値のある命の使い方はありません。これが、約束されていたご奉公なのです。久遠の時から約束されていたご奉公なのです。

災害の支援を息長く続けてゆくことはもちろん、人類を相手に、仏陀の教え、お祖師さまの教え、真実の仏教、佛立信心の大切さを説かなければなりません。人類を相手に、御題目を下種しなければなりません。世界に対して、説くのです。佛立は、佛立なのです。佛立しかないのです。本当の支援活動とは、これなのです。人類を救済する使命が私たちにはあるのです。それが本当の支援活動なのです。それが今回の大災害から私たちが学ぶべきことなのです。それが私たちが気づくべき、覚悟すべき、行うべきことなのです。

私は、そのように感じており、私は、そのような思いに至りました。

高祖から門祖、門祖から開導聖人へと受け継がれた、法灯と血脈を、佛立教講が今なお手にしているかどうかが問われているのです。もはや、信心のない、覚悟のない、思いのない、形のみの、口のみの、上辺の、場当たりな、行儀だけの、者や、やり方は、通用しないのです。

そのように、思っております。

私たち凡夫は、被害者意識は何より強く思うものです。政治が悪い、東電が悪い、正力が悪い、中曽根が悪い、と憤ることは出来ます。しかし、誰のせいでもなく、自分も加害者であることを忘れてはならないのです。

豊かさを享受してきたのは誰か。安閑としていたのは誰か。政治に無関心であったのは誰か。流していたのは誰か。汚していたのは誰か。使っていたのは誰か。認めていたのは誰か。

私たちです。

私たちは、豊かで安全な国を、子どもたちに、そのまま渡してあげることが出来なかった。疑いなく食べ物を口にし、無邪気に海岸で遊んでいる子どもたちを想像してください。いつか、そういう日が来る。そういう国や世界にしてみせる。しかし、それは、何年、何十年かかるか、分かりません。子どもたちに、自分たちが享受してきた豊かさや安全を受け継げなかった罪は、はかることが出来ないほど重く、大きいものです。その大罪、この罪を、私たちは胸に、魂に、刻み込まなければなりません。私は、大きな刃物で血が流れても、このことを魂に刻み込みました。子どもたちに、本当に、申し訳ない。食べたいものを食べ、何の心配もせず青春時代を海で過ごした自分が、それを子どもたちに渡せなかったことを。

第二次世界大戦後の豊かな日本は、そこで命を落とした方々の代償として与えられたものでした。哀れな国・日本やドイツに対する連合国の罪の意識が、今なお希有の豊かさを享受する日本とドイツを生み出しました。つまり、右側の人でなくとも、言い方を変えれば、この国や、この日本にいる全ての家族のために命を落とした「英霊」たちによって、私たちは豊かさを享受してきたと言っていい。「不毛地帯」の主人公のように、罪の意識を感じながら戦後の復興に身を挺した方々がいるとしても、多くは、臆病に、家屋の中で身を潜めていた者たちが、まるで現在のアフガニスタンやイラクで行われている政治やビジネスのように、大国の思惑に寄り添い、権力やカネに本義を見失いながら世渡りしてしまった。震災後に「日本は素晴らしい」と言われますが、それは古来からかろうじて受け継がれてきた日本人の民族性で、震災前はそれすら瀕死の状態でした。社会の生命が生き絶える寸前だったのです。政治や経済の混迷や錯綜、無縁社会が問題視され、介護放棄から孤独死、幼児虐待、尊属殺人が蔓延や横行して、日本の抱えた歪みや問題を映し出していました。このまま気づかず、改め
ず、行動を起こさなければ、大戦で亡くなった方々も、今回の大震災で亡くなられた方々も報われません。

米ソの核開発や核実験競争など憂える事態を内包しながら、ついにここまでたどり着き、いま、人類は、約束の時を迎えています。

この時こそ、真実の仏教が、その真価を遂げる時であり、場所なのです。その使命を、受け止めなければなりません。

ユングの言葉です。
「人間にとって決定的な問いは、「お前は無限という状況にかかわっているか」である。それが人間にとっての基準となる。無限の重要さを知っている時、人は自分の関心を不毛で無意味な事物に向けることが出来ない。人間は、ただ人生にとって本質的なるものを把握した時にのみ有効な生活を送れる。そして、もし本質的なるものを持っていない時、その人の生涯は台無しになる。」

「無限という状況」とは、他でもなく、過去世・現在世・未来世という「三世」を超過する「ご信心」「ご奉公」です。つまり、「過去からの罪障を消滅し」「未来寂光浄土参拝を願う」という、常々教えていただいていることです。そして、「人生にとって本質的なるもの」とは、疑いなく「菩薩行」という生き方、生き様です。これが出来なければ、人生は虚しい。それは人生の本質なのです。その生き方が、裏表なく、素直正直に出来ていなければ、同じ佛立教講であろうと、ユングに言わせればその人生は「台無しになる」のです。

いま、試されています。

私は、そのように感じています。私は、このように受け止めています。

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