今日は京都で、海外弘通特別委員会、米国教区弘通促進委員会。しっかりご奉公しなければ。体調は何とか回復傾向、とにかく責務を果たすのみ。
前期の宗会で第三次答申に基づき「海外部」を「国際部」へと名称変更し、一天四海皆帰妙法の祖願に基づく国際弘通の再定義を試みたが、残念ながら否決となった。
過半数の賛同は得たものの、宗法を改正するには3分の2の賛同を得なければならない。全く残念な宗会であった。
今期の宗会は発言や議論を聞いていて感服することが多く、コロナ禍、ウクライナ戦争と恐るべき事態が進む中、同志としての勇気を感じる。異体同心は弘通の基本。あきらめず宗会に臨みたい。
国内外の弘通進展なくして世界平和は語れないし、訪れない。
悪夢のような、地獄のような戦争の地域にいる自分にうなされて、何度も目が覚める。息子が撃たれる夢には戦慄した。戦慄したが、共感するとは苦悩することでもある。共に苦悩し、自分の場所でできる最大限のことを行いたい。
国際弘通を最適化する。課題を見つけて再編し、再起動する。少なくともこのミッションを共有し、目標に向かってアクションを起こす。
宗門の教育改革は不可避。最大の課題。どこをどう改革すればいいか明らかにしよう。
とにかく、今日も一生分の一日。かけがえのない一日。生きるとは息をすることではなく前に進むことだ。
仏教に帰依したアショーカ王は古代インド亜大陸を統一し、その理念を石柱に刻んで流布した。いわゆる「石柱詔勅」と呼ばれる。東部プラークリット(サンスクリット語)、西部プラークリット、ガンダーラ語、ギリシア語、アラム語などで刻まれていた。それは仏教の理念であり、仏教に帰依した彼の信条であった。紀元前250年ごろの碑文である。
「法は善である」第二章
「わたしは全世界の利益を増進することを、わたしの義務であると考える。‥‥実に、世のすべての人々の利益をなすよりも崇高な事業は存在しない」第六章
「わたしはいかなるところにあっても、人民の利益のために力を致す。」第六章
その教え、その理念は、色褪せない。
「粗暴、乱暴、憤怒、高慢、嫉妬のような、これらのものは、汚れに導くものと称せられる。」第三章
この前後を読むと、このようにある。
『人は一般に「わたしはこの善いことをなしとげた」といって、〔自己の〕善いことのみを見るのが常である。しかるに「わたしはこの悪いことを行った」とか、あるいは「これこそ〔わたしの有する〕汚れである」と言って〔自己の〕悪いことを見ようとしない。ところで一方ではこのことは実に自省しがたいことであるが、他方では実にこのように観察しなければならない。すなわち「粗暴、乱暴、憤怒、高慢、嫉妬のような、これらのものは、汚れに導くものである。ねがわくは実にわたしはこれらのために亡されないように」と。』第三章
自己を知らない者、放逸に自己を肯定する者、自省なき者は、仏教者と言えない。自屈、上慢、二乗心である。
聖徳太子の「十七条憲法」第十条には次のようにある。
『こころのいかり(怒)を絶ち、おもてのいかり(瞋)を棄てて、人の違(たが)うことを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。かれ是とすれば、われは非とす。われ是とすれば、かれは非とす。われかならずしも聖にあらず、かれかならずしも愚にあらず。ともにこれ凡夫のみ。是非の理、詎(たれ)かよく定むべけんや、あいともに賢愚なること、鐶(みみがね)の端なきが如し。ここをもって、かの人は瞋(いか)るといえども、かえってわが失(とが)を恐れよ。われ独り得たりといえども、衆に従いて同じく挙(おこな)え。」
ここにある「共にこれ凡夫のみ」や和の精神のルーツは仏教にある。
第三次世界大戦の入り口にあって、普遍思想・仏教を知っていただきたいと切望する。
「ただ誹(そし)られるのみの人、またただ褒められるのみの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。」ダンマパタ・228
慇懃、無礼、丁寧。負けんきと根気と慈悲。
日蓮聖人は力強くご指導くださっている。
「強盛に、はがみをして、たゆむ心なかれ。例せば日蓮が平左衛門尉がもとにてうちふるまひ、いゐし
がごとく、すこしもおづる心なかれ。」兄弟抄
自由し、自覚し、自立し、自然し、自分する。
他人の評価ではなく、普遍の法に依り、生き切るのみ。絶対後悔禁止。
Think Globbaly, Act Locally!!!
Namu Myo Ho Ren Ge Kyo,,,,,,
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