【 御礼 】
お寺のお米が底をつき、そのことをご披露したところ、たくさんの方々からご宝前にお米のお供えが届き、あるいはお米のためのご有志をお納めいただきました。本当に尊く、ありがたく、心から感謝申し上げます。
お祖師さまの御妙判に『事理供養御書』、別名『白米一俵御書』があります。(本門佛立宗発行『高祖日蓮大士御妙判集第三巻」1061ページ)
このお手紙もご供養を奉納された方への御礼の言葉から始まります。特に、冒頭に「白米一俵」とあって、ご供養の大切さ、そして本当に大切な志、供養とは何か、実践の大事が説かれています。
今回、妙深寺のご宝前にお供えくださった方々へ御礼の一分になればと想い、このお祖師さまの尊い御妙判の冒頭部分を掲載させていただきます。
「白米一俵、けいもひとたわら、こうのりひとかご、御つかいをもってわざわざおくられてそうろう。
人にも二つの財(たから)あり。一には衣、二には食なり。経に云く、「有情は食によって住す」と云云。文の心は、生ある者は衣と食とによって世にすむと申す心なり。魚(うお)は水にすむ、水を宝とす。木は地の上におい(生)てそうろう、地を財とす。人は食によて生あり。食を財とす。
いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり。遍満三千界(へんまんさんぜんかい)無有直身命(むうじきしんみょう)ととかれて、三千大千世界にみ(満)てて候財をいのち(命)にはかえぬ事にそうろうなり。さればいのちはともしび(灯)のごとし。食はあぶら(油)のごとし、あぶらつ(尽)くればともしび(灯)き(消)へぬ。食なければいのちた(断)へぬ。」
簡単に現代語にしながら御妙判の骨子を述べますと。
1. 供養品への謝意と生命の尊さ
白米一俵・里芋一束・川海苔一籠を、わざわざ使者を通じてお送りくださり、ありがとうございます。
人間にとって大切な財は二つ――衣服と食物です。経典に「生き物は食によって生きる」とあるとおり、生きる者は衣と食があって初めて世に暮らせます。魚にとって水が宝であり、木にとって大地が宝であるように、人間にとっては食こそ宝です。命はすべての財の中で最も尊い宝であり、三千大千世界の富をもってしても命には代えられません。命は灯火、食は灯を支える油――油が尽きれば灯は消え、食が尽きれば命も尽きるのです。
2. 「南無」の真意――命を仏に捧げる
仏に礼拝するとき最初に唱える「南無」とはサンスクリット語で、中国・日本語にすれば「帰命」。すなわち「自らの命を仏に捧げる」という意味です。人は身分に応じて妻子や財産を持つ者もいれば、何も持たない者もいますが、誰にとっても命以上の宝はありません。だからこそ、昔の聖賢は命そのものを仏に捧げて成仏したのです。
3. 聖賢の身命供養と凡夫の在るべき志
雪山童子が身を鬼に任せて法を求め、薬王菩薩が腕を焼いて法華経に供え、聖徳太子は自らの皮をはがして経を書き、天智天皇は無名指を焼いて仏に供えました。これは聖賢の行であり凡夫には及び難い。
しかし凡夫でも「志」という一字を心に深く刻めば仏になれるのです。志とは己の心を観ずる「観心」の修行にほかなりません。例えば手持ちの衣を唯一の衣であっても法華経に捧げるのは、皮をはぐのと同じこと。飢饉の時に今日命をつなぐ唯一の食を仏に供えるのは、身命を仏に捧げることです。その功徳は薬王菩薩や雪山童子にも劣りません。聖人の行を「事供養」といい、凡夫の行を「理供養」と呼び、『摩訶止観』第七の「観心檀波羅蜜」に説かれる教えです。
4. 世法即仏法という法華経の広大さ
真の道は世間の法の中にあります。『金光明経』は「世法を深く知ればそれ即ち仏法」、『涅槃経』は「外道の書もみな仏説である」と説きます。妙楽大師は法華経の「一切世間の生業は皆実相と背かず」の文と結び、世法と仏法が分かち難いことを明かしました。先の二経はなお法華経には及ばず、世の法を仏法に寄せて解きますが、法華経は最初から世の法こそ仏法の全体だと説いています。
5. 心即万法――白米は命そのもの
法華経以前の経では「心が万法を生む」とし、心を大地・月・花に喩えます。法華経はさらに進めて「心こそ大地そのもの、月そのもの、花そのもの」と説きます。すなわち対象と主体が二つではなく一体であるという教えです。
この道理を思えば、送ってくださった白米は単なる米ではなく、まさにあなた方の命そのものなのです。
以上が現代語訳、要点の解説となります。
「凡夫は志と申す文字を心へて仏になり候なり。」
「白米は白米にはあらず。すなわち命なり。」
本当に、そのとおりです。そして、だからこそ、このたび妙深寺へお米をお供えくださった方々のお志を尊く思います。
生きたお寺・妙深寺は皆さまの志で成り立っています。妙深寺は営利事業、収益事業を行なっていません。お寺の中のテーブルやイス、境内の石ころ一つに至るまで、すべて檀信徒による御有志、お志によるものです。
日々の、ご有志、お布施、ご供養、お賽銭ほか、様々なご有志に心から随喜いたします。そして、その「志」こそが仏道修行であり、自分に返ってくる功徳行であることを忘れないでいただきたいです。
「凡夫は志と申す文字を心へて仏になり候なり。」
ちなみに、『事理供養御書』は日蓮聖人の御遺文をまとめた『昭和定本日蓮聖人遺文』には所収されていますが、大石寺所蔵だったため「録内」「録外」には収録されていません。
令和の米騒動、ちょっと浮かれて問題を矮小化しないでください。農業政策の愚かさは長年政権を担ってきた与党に大きな責任があります。政権交代のない日本では官僚主義が定着し、あらゆる組織から腐臭が漂っています。目先の情報に踊らされて、一喜一憂することこそ愚かでしょう。
開導聖人は「時節はかはるもの大阪は米や一軒に得意八軒にあたると」とお書き添えになり、下記の御教歌を詠まれました。
御教歌
「くはれぬといふてなくのはふしぎなり店に白米売てゐながら」
格差が拡大した日本。お米はある。危機は庶民だけ、上級の方々に危機感はありません。
「時々に米や酒やもかへざれば つき上りするわるいよの中」
米屋だけではなく、どんな組織もそのままでは腐敗するものです。「イノベーション」は日本人が苦手とするところです。
御教歌
「いのちつぐ ものは米やとしりぬれど はたらかざれば買ふ銭がない」
みんなで、一生懸命に働きながら、ご飯が食べられる幸せをかみ締めましょうー。
菅原文太さんの「国民を飢えさせないこと、戦争をしないことが政治の役割」という言葉を思い出します。そういう意味では責任を果たしていないし、残念ながらほとんどの組織が腐敗しているのだと思います。
とにかく、しっかりしなければ。油断していたら食べるものにさえ困る時代が迫っています。
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