「自分の心を磨く一年」
妙深寺報 令和8年1月号
私たちは毎日数え切れないほど物事を「選択」して生きています。
朝起きる、言葉を発する、食べる、働く、誰かを思う。その一つ一つの選択に必ず「感情」があります。
ところが、この感情というものは実に移ろいやすい。喜び、怒り、不安や寂しさ、波のように寄せては返す感情の起伏。今日の気分が翌日には変わっていることもあります。
感情と選択は切っても切れない関係です。感情は選択を左右し、選択は次の感情の条件を作ります。大切なことは感情が一時的なものでも、感情によって下した決断は尾を引きますし、人生を形づくるということです。感情は消えても「選択」は残ります。
言うか言わないか、どう言うか。するか、しないか、どうするか。感情を奪えば人生は陳腐になってしまいますが、感情のみに任せた選択にはリスクが伴います。
私たちは三毒強盛の凡夫です。闇雲にただ凡夫の感情、喜怒哀楽に任せていたら、後悔の方が多くなってしまいそうです。
怒りに任せて放った言葉が人間関係を壊してしまったり、寂しさや虚しさで手を出して火傷したり、怖さや不安で立ち止まった結果、チャンスを逃すこともあります。感情によって導き出された選択が人生の航路とゴールを決めてゆくとしたら、いい選択ができるよう「心」を磨くしかありません。
しかし、私たちは知っています。たった一言の「ごめん」で冷めた空気が変わる。「ありがとう」で、疲れた心がほどける。「やってみる」という勇気と選択で道が開ける。
感情に負けて人生を狭めてしまうこともありますが、感情を整えて人生を広げる選択も確かにある。ですから、心を整え、磨くことは暗い話ではありません。ただ一度の人生に希望を与えるお話です。
「若さ」とは無限に広がる選択肢のことを言うのかもしれません。事実、若い時には間違った選択をしても「取り返せる」と思えます。ただ、その選択の積み重ねが人生を規定してゆくことは間違いありません。過去に囚われて憎んだり、怒ったり、離れたり、トラウマやコンプレックスに縛られて自分を傷つけたりしていることは本当にもったいないことです。
年を重ねてゆくと、体力的にも時間的にも、選択肢が狭くなり、取り返しにくくなります。そこで後悔しても仕方ありません。自分の人生の選択を受け入れましょう。
受け入れることは諦めることではありません。受け入れた上で、今日できることをするということです。今の自分にできる選択を、丁寧に積み重ねるということです。
そして、最後に選択肢のない「死」がやってきます。人生という感情と選択の連続はここがゴールです。
誤解してはいけないのは、死が「全部を奪って終わり」という話ではない、ということです。外側の選択肢は狭まっても、最後まで残るものがあります。それこそが「自分の心の選択」です。その時、自分の心がどんな状態か。
実は、これは寂しい話ではなく、これこそが本物の仏教を実践している価値、一生分の現証の御利益をいただく時、信心修行の本当の成果が現れる時だと思うのです。
何のためにご信心をしているか。日蓮聖人・お祖師さまの『如説修行抄』第六段は、まさにこの一点を、弟子檀那の胸に打ち込むようにお示しくださっています。
第六段には、厳しい現実の言葉が出てきます。人生は思い通りにならない。報われない状況が訪れ、命さえ脅かされることもあります。しかし、そこで終わらない。
日蓮聖人は、弟子檀那に向かい、そんな時こそ、
「努努(ゆめゆめ)退く心なく恐るる心なかれ」と励まされています。恐怖を否定しているのではなく、勇気を持ち、恐怖に呑み込まれるな、と示し、その上で南無妙法蓮華経をお唱えし抜いた者は必ずや守られる、とお約束くださる。その確信の喜びを結びのお言葉として「あら、うれしや、うれしや」と表現されているのです。
選択肢が奪われた究極の場面に至った時、人の心は恐怖や後悔に呑みこまれてしまいます。しかし、御法に生き、御題目を唱え抜いた人の胸には、最後に歓喜が湧くと教えていただく。この日蓮聖人の確信を受け継ぐ者こそ本物です。「うれしや」という感情が人生の究極の目標だとお示しなのです。
仏陀の最後の御法門として語り継がれているお言葉があります。
「自らを島とし、自らを頼りとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、彼らはわが修行僧として最高の境地にあるであろう。」
お釈迦さまは、まず、自分の心、自分自身を磨いておきなさい、とご遺言されています。もう一つは「法」です。法とは宇宙に流れる普遍の法則、つまり「御法さま」のことです。自分と法。前後を入れ替えれば「御法さま」と「自分」、「御本尊」と「私のご信心」ということになります。「この二つを頼りとして、それ以外に依存するな」とお示しなのです。
私たちは一人では生きられない。誰もが必ず人と人との間で生き、生かされている。大切な人がいる。家族、親族、友だち、先輩、後輩、同僚、大切です。そういう人たちがいてこそ、人生は豊かになるし、楽しくなるし、幸せになれます。
しかし、自分を忘れて、自分を見失って、他人に依存して生きてゆくことは出来ないし、許されません。どれだけ愛する人がいても、人間は一人で生まれて、一人で死んでゆく。当たり前ですが、誰も道連れにすることは出来ません。自分の旅です。自分の心なのです。自分の責任なのです。
うっかりしているとネガティブな感情に呑み込まれてしまいます。油断していると寂しさや虚しさや不安に押しつぶされてしまいそうにもなります。人生とはそういうものです。
だからこそ、南無妙法蓮華経のご信心です。感情の起伏があり、いい選択ばかりではなく、愚かな選択を繰り返す人間、徐々に選択肢が奪われてゆく人生という旅を歩む人間たちを救うために、仏教があります。生死の壁を超える、唯一無二の希望です。
ご宝前に座り、御本尊に向かい、南無妙法蓮華経と御題目を唱えてみてください。心と魂の薬です。
人生には苦しいことがあります。そんな時こそ、ご信心、お看経、御題目です。極限状態に至っても「あら、うれしや、うれしや」という感情が溢れ出すように、いい選択を重ねましょう。「うれしや」を目標に精進いたしましょう。



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