2008年3月1日土曜日

人間の本業

 人間にしか出来ないこと、人間本来の仕事、人間の本業を教えてくれるのが仏教であると思う。
 経済学者のケインズは、「生きるために働く必要がなくなった時、人は人生の目的を真剣に考えなければならなくなる」と言ったそうだが、「人生の目的」を「生きるために働く必要がなくなった時」まで先送りにして考えないでいるのは不幸ではないか。会社を退職し、子育てを終えて、年金生活に入ってから、ようやく人生の目的を考えるというのも、何とも遅きに失した感がある。
 貴重な人生を生きているのは、働き盛りの人とて変わりはない。むしろ「人生の目的」に無関心なまま、仕事や家事に追われていることの方が虚しい。社会に溢れる問題は、人々が「人生の目的」を見失っているために発生している。目的が定まらなければ、目標も、それを達成する方法も定まらない。
 米国ハーバード大のビジネス・スクールで、死の床にある経営者たちに人生を振り返ってもらい、その言葉に耳を傾けるという講義があるという。「もっと仕事をすればよかった」という人はいない。誰もが「家族や自分のために時間を使いたかった」と話す。ケインズの言葉から時は流れて、ビジネス・スクールでも「働く目的」や「生きる意味」を考えなければ幸せになれない、虚しい一生になるから気をつけろ、と教えるようになったのだ。
 仕事と私生活の共存をテーマとした「ワーク・ライフ・バランス」という言葉や活動を耳にするようになった。企業や地域は働き方と生き方のバランスに配慮した社会を目指して取り組みを開始した。個人への支援も開始されているが、それだけ現代人がバランスを失い、バランスを取ることに苦労をし、疲れているということだろう。
 御仏が説き明かしてくださったのは、人間が人間として最も人間らしく生きる道に違いない。
 働くことも子育ても人間だけの営みではない。植物も動物たちも同じように生きるために活動し、子孫を残すために必死だ。彼らの家族愛や子育てから、人間が学ぶべきことも多くある。
 しかし、人間の「生きる」とは、動植物のそれとは大きく異なる。もっと違うところに、人間として生きる意味があると御仏は説いた。それを知らないから迷い、そこに無関心だから人は苦しむ。本当は「バランス」の問題などではない。仕事と生活の中心に何があるかだ。
 そのことを御仏は教えられた。生きるために働くが、働くために生きるのではない。生きるために様々なものを手に入れるだろうが、手に入れたもののために生きるのではない。「仕事」も「私生活」も、「生きる」ことそのものではない。
 御仏は、人間が何のために生まれてきて、何のために生きるのかを教えてくださった。 事業を行ったとかサラリーマンとか無職とか、子どもが何人いた、子どもがいなかったとか、そんなことは全く関係なく、その人は、「人間」が果たすべき「生き方」が出来たのか、と仏教は問う。
 人間は持って生まれた「魂」を磨き、人間性を向上させるために生まれてきた。仏教的に考えれば、「生きる」とは、このことである。人間にしか出来ない「生きる」は、人間性の向上、どれだけ魂を磨けたかということだ。大金持ちでも人間としての資質が低ければ仏教では通らない。貧しくても、魂の向上に努めた人々を高く敬うのが仏教なのである。
 御仏が示された人生の目的は、御仏と同じ境涯に近づくことだ。そして、人生の目標はあくまでも人間性の向上であり、魂を最上の境涯に近づけることなのである。事業に成功するとか、幸せな家庭を作る、立派な家を建てる、趣味の世界の達人になる、というものではなく、仕事や家庭を通じて、如何に人間性を向上させられるか、六道輪廻の繰り返しから抜け出し、御仏に近づけるかが、人間の目標であるべきと説かれたのだ。
 人間の本業とは菩薩行である。その他のことは、「人間」にとってみれば副業と言える。その副業を本業と思い込んでいるから、人は苦しみ、悩み、迷うのではないか。本業は、魂を磨くこと、人間性の向上に努めることであり、仕事も家庭も、子育てですら、副業だと教えていただく。そうした営みの場所を、魂を磨く場所、人間性を向上させる場所に出来なければ、私たちは永遠に本業を忘れていることになる。 
 仕事にしても、私生活にしても、「生きる」という意味を知らないのではバランスの取りようがない。仕事が頓挫して絶望する、家庭が崩壊して落胆する、それを理由に自ら命を絶つ人が増えているのは、実に本業を知らず、副業を本業だと思い込んで生きている人々が 多いかを示しているのではないか。本業に目覚めることではじめて、仕事と家庭、そこに生きる自分の姿が見つかるはずなのである。
 御仏の時代から、出家して修行する者と家庭や仕事を持ったまま仏道修行を志す「在家」の修行者がいた。両者はそれぞれの立場で「本業」と「副業」が何かを学び、人間として「生きる」ことに精を出した。出家者だけが「本業」に打ち込んだわけではなかった。
 仕事に忙しいビジネスマンでも、家事に追われる主婦でも、学業やスポーツに励む学生でも、他の人のために行い、他のあらゆるものとの共存と共栄を祈って生きる。功徳を積み、罪障を消滅し、魂を磨こうと努めるべきなのである。それが人間の本業なのだから。
 ご信心に励む人は、人間の本業に気づいた人である。仕事や家庭、学業を疎かにするということではない。むしろ、本業を盛り立てるために、職場や家庭を、人間性を向上させる場所、実践の場として活き活きと生きれるはずだ。本業を知らずにいた時よりも、命ある限り、心豊かに生きてゆける。
 人間は、何のために生きているのか。難問ではあるが、仏教徒は答えを持っているはずだ。「人間」が「生きる」ための仏教である。ご信心は人間が本業に気づく旅だ。
 本業を副業、副業を本業と考えている人は、ご信心に励む意味を理解できないだろう。菩薩行が、自分の人生に何をもたらすのか、と頭をかしげたくもなるだろう。しかし、それが迷いの根本なのだ。本当の「生きる」を知らないのだ。
 人間本来の生き方が出来れば、それが最も自然であり、心地よい。菩薩行こそ人間の本業。人間の「生きる」そのものである。

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