2008年3月25日火曜日

移民の父 水野竜氏

 昨日、水野竜氏の墓地へ視察に行き、清掃を行った。
 昭和30年9月9日、日博上人は日系移民の父と呼ばれた水野竜氏の墓を訪れた。その著書「コーヒーの壺」によると、墓参に当たって日颯上人は、佛立信徒であった氏に対し「本伯院開勳契拓日竜居士」との法号を追贈され、卒塔婆を建立して恭しくご回向をくださったという。この模様はブラジル内新聞各紙に掲載されたという記録が残されている。
 それから53年後、ご巡教のための事前視察と清掃、現地責任者との調整などをさせていただくために、私もその墓前を訪れた。木が生い茂り、水野家の墓標の上を覆っていた。53年間の星霜の中で、水野家の墓地の管理にも変更があったらしく、その遺骨も移動したとかしないとか、と聞いていた。
 しかし、墓碑は確かに水野竜氏の碑文を刻み、変わらずに氏を称えている。日本から国賓級の方が水野竜氏の墓地を訪れるという事前の調整が実り、広大な墓地を管理する責任者が3人も出てきてくれて、私たちと打ち合わせをしてくださった。しっかりとした対応を有難く思う。この霊園の中でも、水野竜氏の墓地は特別であると認識しているのだ。
 「翁は人為 気宇壮大 志操高潔也 夙に日本人の海外進出を提唱したるが一九〇五年也と鑑るところありて単身渡伯し サンパウロ州政府と折衝を重ね 農業移民を契約締結 一九〇八年第一回移民を送致し 茲に日本移民の発展端緒を開く 爾来日伯間を往復して親善に資し その生涯は移植民の為に東奔西走 遂に九十二才を以て此の地に卒す 今や楽土をブラジルに住する日系人三十万余り(注 現在約130万と言われる) 各々其の処を得る所以のものは寔にこれ翁の卓見に由来し 其誘掖によるものと云うべし 此の偉業を追慕景仰する邦人相謀りり碑を建立して之を誌し 以て後世に伝えんとするもの也」
と墓碑が刻まれている。これを建立したのは「竜翁会」という有志の方だった。「コーヒーの壺」に詳しく書いてあるが、現在のブラジルに住む日系人社会全体、全日系人にも関係することなので、ここにあらためて記しておきたい。
 「水野氏に騙された」「移民をしたらお金持ちになれると思ったのに」という氏を非難する声もあったので、一時期は「移民の父」として敬われるどころが憎まれ口を言われることもあったが、何と言っても今や130万人にもなったブラジル日系人社会の最初の一歩を踏み出させた人なのである。碑文の通り、その気宇は壮大だったに違いない。
 少々、コーヒーの壺から引用してみると、
「話は半世紀の昔に遡る。東京乗泉寺の御信者で、後に清雄寺に籍を移した水野竜さんという人がいた。水野さんは、美濃国太郎丸城主深尾氏の家臣、水野亀子(かめす)の次男として生まれ、明教館に学び小学校教師をつとめていたが、向学心に燃えて明治21年慶應義塾を卒業、後藤象次郎に知られて岡山県庁に勤務した。そして徳島藩士の娘岩佐矩子さんと結婚してのである。(この人が、東京乗泉寺日歓上人のお弟子の故高見現達師の妹さんである)
 官界をさってのち、板垣退助の自由民権派の斗士として活躍する一方、志を殖産興業に向け、城盤炭で火力発電事業を興して深川電燈株式会社を創立した。その内に明治27年ブラジルのサンパウロ市からブラード・ジョルドン商会代表のカーライル氏が来朝、日米移民の誘致を日本政府に申し入れたのである。
 当時、”南米移民の断行を望む”の標題で外務省に意見を具申し、いわゆる南進論をとなえていた水野氏は、杉村ブラジル駐在公使にわたりをつけて1905年と1907年の2回単身渡伯、実地調査に当たり、ブラジル政府首脳と会見して、1907年11月6日、日本移民輸送契約を個人的に結んで帰ってくると早速外務省に移民1千人募集の認可を申請してその認可をとった。
 翌1908年(明治41年)4月28日、奇しくも日蓮聖人立教開宗と日を同じうして、神戸港より笠戸丸は798名の第一回移民を乗せて一路ブラジルの新天地に向かったのである。輸送総取締は水野竜氏、監督は上塚周平氏であった。
 そうして、イギリス人が経営するズーモンド耕地へ入植した。これがブラジルにおける日本人移民のさきがけである。水野氏は相当の資産を持っていたそうであるが、東奔西走する内にその財産費い果たしてしまい、交渉が纏まっていざ出発という段階に立ち至ってその費用が一文もないという状況となった。そこで時の大政治家大隈重信侯の門を叩き、5万円の金を出してもらってようやく出発したといういきさつもあったそうである。
 その時水野さんは考えた。ブラジルの新天地に開発の斧をふるうためには、その思想の根底に、是非共信仰が必要である。信仰の筋金を一本通すことによって、この大事業の成否が約束される、と。そこは強い信仰をもつ仏立人水野さんである。早速その旨を日教上人にお願い申し上げ、教務一人の御斡旋を願い出た。
 この申し出をお聞きになった日教上人、しばらく考えておられたが、『茨木現樹がよかろう』と云われた。茨木現樹師は一見識の持主で22才の血気旺んな青年僧であった。日教上人のお言葉に一言力強く『行きましょう』と答えた。
 いまでこそ(昭和30年当時)飛行機で5日間の行程、汽船でも50日間の航海であるが、明治時代では実に3ヶ月の行程を要する容易ならざる船旅であった。渡伯後も水野氏は日伯両国間を度々往復し、十回目の渡伯を最後に、1950年92才で現地に名を残して他界した。
 日本政府は氏に勲六等瑞宝章を以て酬い、サンパウロ市はブラジル独立400年祭に当たり唯一の功労者としてその名を称えられたのである。サンパウロ市郊外の水野氏の墓地に建立された記念碑には、前記の様な賛辞が刻まれ、現在60万(2008年時点では約130万人という)を超える在伯邦人はこの墓に詣でては、この碑にその功績を偲んでいる」
 以上、日博上人の名著、ブラジル本門佛立宗にとっても極めて貴重な資料である「コーヒーの壺」から引用してみた。
 水野竜氏の墓碑を眺めながら、読み、磨きながら、100年の永き年月の、それぞれのドラマを想った。夢や希望、栄光と挫折、葛藤と決断、得るもの、失うもの。名声と叱声。
 それぞれのドラマが胸に迫ってくる。何百万もの人間の、人生のドラマだ。もちろん、遠く53年前に天翔てブラジルに渡った日博上人や二度目のブラジルに随行した母、日博上人の孫に当たる私を含めての、、、。

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