また、小さな命が、近親者である母の手によって奪われたかも知れないと、報道されている。そんなニュースを聞いて、気持ちが沈んでしまう。
以前書いた文章を、また読み返していた。だから、また、再掲してみる。
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ずっと忘れられず、頭にこびり付いた言葉。山形県で起きた5才の 加藤 翔(しょう)くん殺害・死体遺棄(いき)事件で、翔くんがこの世に残した最後の言葉が「カー(おかあさん)、たすけて」でした。
韓国の人気ドラマ「冬のソナタ」や小説「世界の中心で愛をさけぶ」などの純愛ストーリーが大ヒットとなる中、人間生活の原点である家族や家庭内の問題は深まる一方です。この矛盾(むじゅん)は何なのでしょう。わが子を愛せない母親や接し方に悩む親。心の通わない関係が夫婦から親子にまで広がっています。特に、幼児虐待という最も恐ろしい事件には顔を背けたくなります。
秋田県内に住んでいたお母さんと翔くん。周囲から見ると、母子家庭ではあっても、幼稚園の送り迎えも欠かさない、とても暖かい親子だったそうです。ところが、ある時、母親が出会い系サイトで、一人の男性と知り合いました。
若いお母さんです。寂しさからなのか、すぐに関係は深くなり、一緒に住むことにもなりました。平成15年5月のことです。相手の男性にも子供がいる、自分にも子供がいる。新しい生活は4人でスタートすることになりました。
先天性の腎臓(じんぞう)病を患(わずら)う翔くんは、尿を漏(も)らしてしまいます。それが気に入らない29才の板垣直樹という男は、厳しく翔くんを叱るようになります。最初はわが子が叩かれたり、殴られたりする姿を見て、母性のある母親ですから、「あぁ」と思い、可哀相(かわいそう)だと思う。ところが、「何でお前は叱らないんだ」と男が激怒するようになる。逆に、翔くんをきつく叱ると誉めてくれる。いつしか、母親としての正常な気持ちは消え、翔くんをきつく叱ることで男が優しくなることから、感覚はマヒしてくる。母性を喪失した彼女は、翔くんを「恋愛の邪魔」と考えはじめた。
最初は、きつく叩く。そのうちに罰として食事を減らす。食事を水だけにする。強く殴る。何度も殴る。バルコニーに立たせておく。数時間が、1日、2日と増えて、後に3日間バルコニーに放置したこともあった、と。
パイプ椅子で殴り、アゴの骨を折った翔くん。最後の日は、男と二人で風呂場に連れて行き、やせ細った翔くんに熱湯をかけ、ハサミで皮膚を切り取り、衰弱死(すいじゃくし)させました。
その翔くんの最期の言葉が、「カー、たすけて」という言葉であったというのです。私は、その言葉を聞いて、涙が出て涙が出て仕方がありませんでした。食事も与えず、恐ろしい顔で自分を殴り、熱湯を浴びせかけて、皮膚を切り取るような母親に、「カー、助けて」「お母さん、助けて」と言いながら死んでいった翔くん。何ということでしょうか。その気持ちを考えると涙が止まりません。
その後、母親は男に指示された場所に遺体を埋めに行きました。彼女は、全国の風俗店を転々としながら男にお金を送り、翔くんの遺体が掘り起こされるのを見て、はじめて我に返ったといいます。刑務所の中で彼女は弁護士に話をしました。翔くんが秋田にいた頃、いつも「ボク、カーと結婚したい」「カー、大好き」と言ってくれていた、と。先月の6月7日に判決が出ました。懲役11年。判決を聞いた彼女は「死刑にして下さい」と泣き崩れたそうです。
決して、他人事ではありません。別世界の、狂人の話として片づけてはいけないと思うのです。何が大切か、何が大事かということを忘れるのが私たちだからです。自分の心の奥底にも、恐ろしい心、愚かな心が隠れています。それが何をきっかけにして表に出てくるか。性欲か、名誉欲か、金銭欲か、嫉妬(しっと)なのか、恨(うら)みなのか、怒りなのか。正常と異常の境界が見えなくなります。自分の愚かな行為も、すぐに正当化したり、肯定したり出来るから、人間とは恐ろしいのです。
心を映す鏡を持たず、過信して、肯定して、人のせいにして生きていては、「純愛」が出来てもサルと同じです。サルの方がましです。
千葉県袖ヶ浦市では、母親から両祖父母、曾祖父まで一家5人が逮捕されるという、極めて残忍な幼児虐待致死事件が起きています。その殺された3才の子供の名前も「翔くん」でした。
こうした残酷な事件を聞くたびに、豊かになったこの国に生きる一人一人が、「自分」と「家族」の在り方を見つめ直し、崩壊していく人間という存在価値に対して「答え」を模索する必要があると痛感するのです。
多くの人は、その答えを御仏(みほとけ)の教え以外に求めるでしょう。より具体的で、現実的な捉え方や解決方法があるはずだと考えるのだと思います。小学6年生が起こした同級生カッターナイフ殺人事件と同じように、遠回りしながら社会は核心に触れようとしていないのです。モノにばかり気を取られ、「心」を置き去りにしてメンツや体裁(ていさい)を整えようとしている間は、健全な家庭や家族を生み出すための答えが見えてこないのだと思います。
「慈愛(じあい)」「恩愛(おんあい)」「癡愛(ちあい)」「愛執(あいしゅう)」と、家族を支えるべき「愛」にも色々なカタチがあり様々に変化します。その「愛」を健全に育み、伝える努力が人間には必要で、見失えば苦しみを増すばかりなのです。
親である者が迷い、大切な心を置き去りにして、忙しさを口実に家族と向き合うこともなく生活をしていれば、近くに住んでいても、心は遠く離れてしまうのでしょう。そこに残るのは、欲と見せかけの形式的な、契約のような、家族という「単位」でしかありません。
御仏(みほとけ)に縁の深い者であっても、家族の在り方は永遠のテーマです。形式的な信仰の中に健全な家庭を築くためのヒントはありません。生活と御仏の教えを結びつけられない人は、社会の風潮に流されて、家庭の中に歪(ひず)みを抱えるでしょう。そこに気づいて御宝前(ごほうぜん)に近づき、祈り、教えを聞き、菩薩の誓いを立て、行う姿勢が必要なのです。
哀れな親は、哀れな子供を生み出します。何が哀れかといえば、目先のことに終始している親が、家族で何をして、何処へゆくべきなのかを見失っていることです。遊園地や食事に出掛けても、家族で祈るべき場所を知らない、家族で足を運ぶべき尊い場所がない、家族が揃って尊い教えを聞く場所がない。お参詣もせず、御法門も聞かず、家族の中に一人の菩薩もいなければ、真に健全な家庭への道は遠のき、迷うばかりです。
「カー、たすけて」という言葉を他人事にすべきではありません。
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