ありがたいことに、自分には20年来の、父や兄のような人がいます。
師。
お父さん。
お兄。
おやっさん。
親友。
仲間。
後輩。
弟たち。
長野からの帰り道、「お父さん」と呼ばせていただいている方の実のお母さまが亡くなられたという連絡を受けました。
今年の春前から、いつ何があっても不思議ではない状態と聞いていたのですが、この12月11日、静かに息を引き取られたのでした。
いつも、とにかく強くて、優しくて、男らしいお父さんが、第二本堂で横たわるお母さまのおでこにキスをして、末の妹さまと共に涙されている姿。
胸が締めつけられました。
思い返せば、はじめてお会いしたのは、まだ僕が大学生の頃、20才でした。
茅ヶ崎の海でした。
卒業後、本山に向かう私の留守番電話に、励ましのメッセージを入れてくださっていたことは、今でも忘れられません。
どのようなモノにしても、本物にこだわるお父さん。
どれだけ権威や衣装を飾っても、ニセモノならば即座に見抜き、インチキならば何も構わずに喝破する人だから。
そんなお父さんを前に、インチキでいられるはずがありません。
お父さんのご家族、ご親族とも、あたたかいご縁をいただきながら、育みながら、今日まで何とかやってきました。
この度、お母さまが亡くなられ、お見送りさせていただくことになりましたが、もう本門のご宝前で、3度目となる告別式のご奉公でした。
義兄さま。
お父さま。
そして、お母さま。
ご家族の歴史。
激動の、それぞれの人生。
不思議なことですが、一年365日ある中で、お母さまの告別式はご主人の祥月ご命日と重なりました。
きっと、偶然ではありません。
この日だったのですね。
御題目を、まごころを込めてお唱えさせていただきながら、本当に、ありがたく思いました。
本物の、本物で、ご家族を、しっかりとお見送りさせていただける有難さを、私自身が、私自身を戒めながら、強く思いました。
自分の、曲がりくねった人生。
倒れそうになることや、流されそうになることも多々ありますが、「本物」でなければならない理由が、先輩や友人たちからいただいている信頼や期待の中にもあるのでした。
お母さまをお見送りさせていただきながら、このことを強く思ったのです。
おかげなのだ、ということ。
感謝。
何物にも代え難い、私の宝物。
数え切れないほど、人生の恩人が、妙深寺に集い来てくださっていることを、さらなる力に変えて、これからも精進してゆきたいです。
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