数千年前から、人は月に憧れを抱いてきました。真っ暗な夜空に輝き、様々な形に姿を変える月は、意識する必要もない程大きな存在の太陽より魅惑的だったのです。
ある時は鏡のように、ある時はか細い女性のように、ある時には暖かい母のように、月は人を魅了してきました。約六千年前、チグリス・ユーフラテス川の下流域に住んだシュメール人は29.5日を周期として月が姿を変えることを知り、時間の尺度にしました。
ローマ人は、月のはじめの日を「月を呼んだ日(カレンダエ)」と呼び、この真っ暗な新月の夜空を見上げた時のローマ人の表現が、英語の「カレンダー」という語源となりました。
日本人は、十六夜月(いざよいづき)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、臥待月(ふしまちづき)、宵待月(よいまちづき)と、素敵な呼び方をつけて、天空に浮かぶ月に魅惑的な世界があり、そこに天女が住むと空想していました。
シュメール人はアッカド帝国に滅ぼされ、アッカド帝国はバビロニア帝国のカルデア人に滅ぼされました。カルデア人は遊牧民で、夜になると星の動きを読み、季節の変化にともなって星が移動することを知り、活用しはじめました。
そして、多くの星が規則的に変化しているにもかかわらず、五つの星だけ他の星よりも一段と輝き、何より全体の秩序から外れていることに気づきました。カルデアの人は「行く先に迷っている星」、「惑える星」「プラネット=惑星」と呼んだのです。それが、水星、金星、火星、木星、土星でした。
カルデア人は、この五つの惑星に神が住んでいると考え、太陽と月を付加した七つの星に、人が生まれてから死ぬまでの一切と、地震や洪水や飢饉(ききん)という自然現象の全てが支配されていると信じるようになりました。これが星占い、占星術の起源です。
今でも多くの人が星占いに夢中になっています。しかし、惑星物理学の好きな私には何の興味もありません。書店でもテレビでもインターネットでも、占い師の情報が溢れています。残念ながら「当たる」と評判になっても距離を置いていた方がいいです。
古くから霊媒師は問題を増やし、宗教家は問題を減らすものです。迷信に翻弄(ほんろう)されてはいけません。貴重な人生を虚しくするばかりです。気をつけてください。
そもそも惑星による運命論を根底から突き崩したのは、約450年前のニコラス・コペルニクスです。この聖職者にして政治家、医師にして詩人でもあった数理天文学者は、地球が宇宙の中心で制止しているのではなく、太陽の周りを回る惑星の一つに過ぎないということを明らかにしました。地球自身が「プラネット」だったというのです。1543年のことでした。
七つの惑星が地上の人や出来事に影響を与えているという考えは、地球がその惑星と別の存在、宇宙の中心にあればこそ、それなりに理に適っていたといえます。しかし、コペルニクスは地球も大きな体系の中の一つの惑星だと明言したのです。
カルデア人から三千年もの間、人類はこれを知らずに惑星や星座の動きにあらぬ不安や期待を抱いてきました。私たちが巨大な宇宙の法則の中にあること、そして太陽や月が地球上のあらゆる生命にとって父や母のような存在であること以外は迷信の枠を出ないということです。
最も近い月ですら、1969年まで表面の模様は謎のままでした。哲学者カントは火山説の主唱者でした。アポロ11号の月着陸まで、クレーターの存在や大地の模様について、その謎は解かれないままだったのです。
夢の無い話ばかりをするつもりはありません。しかし、このような最新の宇宙科学に匹敵する教理が御仏(みほとけ)の説く真実の仏教と完全に合致すると考えられるのです。
十方の宇宙に広がる過去・現在・未来の世界を説かれた仏教の宇宙観は、古代インド神話の延長線上に生まれた混沌とした思想ではありません。人間は何故、何のために存在しているのか。宇宙こそどのような存在か。それを克明に、詳細に覚知(かくち)され、人間のあるべき生き方を示されたのが御仏であり、仏教です。
「宇宙は、宇宙を知り、理解してくれるヒトを求めていた。」
先端科学の分野でも「そうであるとしか思えない」という「人間原理」が注目されています。この惑星に生命が誕生し、進化を遂げても、人類が真に宇宙の存在を見出せなければ宇宙を誰が認知できるのだろうか、という最大の科学的テーマです。
N=Ns×fp×ne×fl×fi×fc×L/G
天の川銀河に人類のような高度技術文明を持つ生命が存在するかどうかという問題を考える時に、必ず出てくる「ドレイクの方程式」が前述の数式です。
この銀河系に存在する高等文明の数を「N」とすると「Ns」は銀河系に存在する恒星の数。「fp」はその恒星が惑星系をもつ確率。「ne」はそのなかで生命が生存可能な環境をもつ惑星の数。「fl」はそこに生命が発生する確率。「fi」はその生命が知的生命体に進化する確率。「fc」はその生命体が他の星に対して通信をおこなえる確率。「L」はその高等文明の継続時間。「G」は 恒星の寿命。
数式一つ一つに数字を当てはめ、科学的に推定を加えると、現時点で人類と同じ高等技術文明を持つ知的生命体が存在する可能性のある星は約1000個。議論の余地はありますが、これは十分あり得る数字だというのです。
今現在、この銀河系に、約1000もの宇宙人たちが暮らしている。胸が躍ります。
しかし、この数式で最も重要なのは「L」。その高等文明の継続時間だというのです。
ある学者は皮肉にも、高度な技術を持つようになり、宇宙の存在を知り、理解するようになった文明の継続時間を「100年」としました。智慧を発達させると同時に人類は愚かさから自滅するというのです。
となると、どうでしょう。1000個の恒星までの平均距離はおよそ100光年。文明の継続時間がもし100年だとすると、地球圏外の生命と交信することは極めて困難ということになります。
宇宙に意志があり、宇宙が人類を求めていたとするならば、御仏は宇宙の意志を知り、宇宙の意志を体現された方でしょう。
仏典の中を見てください。想像を絶する宇宙の大きさと時間の流れの中で、過去の人類、現在や未来の人類を説かれるスケールに驚愕(ぎょうがく)せずにいられません。
仏教とは壮大な宇宙の中で、生を受けた人間の最も人間らしい生き方を教えてくださるものと確信しています。
飛行機が飛んだのは1903年。今から118年前。世界初の宇宙飛行は1961年4月12日。今から60年前。果たして、宇宙にまで到達した人類文明は100年もつのでしょうか?その日は2061年です。危うい気持ちがします。ギリギリのように思います。
高度な科学技術文明を持つ人類も、迷信やジンクスに翻弄されているようでは百年も経ずに自滅してしまいます。
正しく宇宙を知覚すること。そして、人が人を、人類が人類を、自分が自分自身を知ること。
そうでなければ、進化しているように見えて退化していることになり、平和を求めたが故に危機を迎えるようなことにもなりかねないでしょう。
正しくものを見ること。そのためには様々なものから離れなければならないし、離さなければなりません。そのための仏教であり、仏道修行です。
最も大事なのは、自分の中にある迷い、欲得、妄想、幻想などを知ることです。重要なポストにある方の無知や妄想に驚かされる昨今、心を鏡に映して、自分を知ることの大切さを痛感します。
ありきたりに思われる「南無妙法蓮華経」というマントラ、あまりにシンプルと感じる口唱という修行には、深淵な仏教の叡智すべてが込められています。
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