2007年10月13日土曜日

伏見、妙福寺へ

 大津・佛立寺から伏見・妙福寺へと移動。そこは、海外部長のお寺であると共に、明治23年7月17日早暁、開導聖人が最後のご奉公に向かわれた伏見港に隣接したお寺である。

 明治23年7月17日早暁、麩屋町の法宅(現在の長松寺)を出発された開導聖人は、人力車で伏見港に到着された。

 当時の伏見は、淀川を運用幹線として活用していたため、非常に重要な交通拠点として栄えていた。坂本龍馬で有名な寺田屋も伏見にあり、妙福寺からは歩いてすぐの距離である。

 その年の5月頃から開導聖人は体力の衰えや不調を感じておられた。御歳74才。しかしながら、大阪の秦氏からの御願いで、大阪でのご奉公を快諾された。ご弘通ご奉公のためには、身命を顧みない姿勢を貫かれていた。その前夜、朝方まで駆けつけた2世日聞上人や3世日随上人のお給仕を受けながらお休みになり、17日早朝にはお二人よりも早く起きられて、大阪へ向けて麩屋町の法宅を出られた。早朝にも関わらず、麩屋町通りには大勢のご信者方がお見送りに来ていた。

 今回、妙福寺にお参詣し、皆でお看経をさせていただいた後、妙福寺の松本御導師のご配慮をいただいて、その伏見港の面影を残す十石舟に乗船することが出来た。妙福寺では、婦人会の方々が心のこもったご供養を準備して下さっており、大変に感激した。妙福寺の婦人会は、本当に素晴らしい。現薫師の奥さまとなった祐歌ちゃんも、元気にご奉公して下さっていた(新婚旅行を延期して、このご奉公をしてくださっていた)。

 妙福寺から歩いて伏見の港、十石舟の乗船地へ。海外の方々ははじめての経験ということで、開導聖人の当時のことを深く心に刻めたことだと思う。

 秦氏は、開導聖人を大阪にお呼びするために三十石舟を新たに建造された。当時としても、これは大変な御有志であり、お給仕であったと思う。御導師(大尊師)をお迎えするに当たってお給仕の誠を尽くすという志であったのだろう。

 開導聖人とご一行は、その三十石舟に乗船され、伏見港から宇治川、淀川へと下って行かれた。私たちは伏見港の佇まいを今でも残している風景を楽しませていただいた。大変に贅沢な時間だった。柳の葉が水面まで垂れて、両岸に酒蔵。その壁となっている杉の色が何とも言えない京都の雰囲気を漂わせていた。

 私にとっても初めての経験だった。坂本龍馬は若者の誰もが憧れる。私とて例外ではなく、伏見に来たら頭に浮かぶのは寺田屋。今では近所にガソリンスタンドがあって都会の喧噪の中にある。そのすぐ脇にこのような風景が広がっていようとは思っても見なかった。

 「おーい、竜馬!」という漫画に、寺田屋の前の風景が描かれているが、まさにそうした雰囲気そのもの。歴史を紐解けば、戦国時代を経て、豊臣秀吉が「太閤堤」をはじめとする宇治川の治水事業を行った。その際、この地に港が設けられ、三十石船が伏見と大阪の間を行き来するようになったという。

 江戸時代に入って高瀬川が開削され、京都の中心部と伏見が結ばれ、さらに交通や交易が盛んになった。江戸時代中、さらに伏見は栄え、参勤交代の大名のために本陣や大名屋敷が建設・設置されるようにもなった。

 明治時代に入り琵琶湖疏水が開通すると疏水とも接続、大津から大阪までの水上交通が完成して蒸気船まで運航されるようになる。今回も記念館で当時走っていた蒸気船の写真を見ることが出来た。

 川を下っていく途中で、停泊している三十石舟を見ることが出来た。これほどの大きな舟を御有志したのかと思うと、当時の秦氏のご奉公にも頭が下がる。右の写真がそれだが、この舟に揺られて、開導聖人と奥さま、品尾さま、日聞上人、日随上人等は川を下ってゆかれたのだ。

 何度か「ご信心とは覚悟である」とブログに書いてきたが、この時の開導聖人の御覚悟は半端なものではない。高齢で、しかも体調が不全であるのにもかかわらず、ご奉公を優先し、ご信者の思いに応えようとする姿勢。まさに私たちのお手本がここにある。

 ブッダが最晩年に弟子一人だけを連れて、また布教のご奉公の旅に出られたことは有名である。大勢の弟子にお給仕され、設備の整った精舎から、ブッダは何故出て行かれたのだろうか。他の仏教宗派では、「ブッダが覚りを開いた」ということにだけ注目して、瞑想をし、座禅を組む。しかし、ブッダの生涯、特に覚りを開かれた後の50年を見てみれば、それ以上に大切なことが見えてくる。

 ブッダは、苦しみ悩む人を救い尽くそうと、精舎を出たのだ。閉じこもって、お給仕されて、それで良しとするのがブッダの本意ではなかったのだ。「まだまだいける」「まだ、しなければならないことがある」と覚悟し、決定して、ブッダは最後の旅に出られた。そして、その途中で、貧しい家に立ち寄られ、そこでご供養をいただかれてから涅槃に入られることになった。そのことの、その生き方、そして涅槃の迎えられ方の意義を考えねばならない。

 お祖師さまとて同じである。今日はお祖師さまの祥月ご命日。弘安5年10月13日に御入滅になられた高祖日蓮大菩薩、お祖師さまも、旅の途中での御入滅となった。最後の最後までご奉公をし続けられたということである。

 開導聖人もまた、この伏見港から大阪へのご奉公に向かわれた途中で、ご遷化を迎えられることになる。7月17日の早朝はご気分がよかったと伝えられているから、この風景をゆっくりと楽しまれていたことだろう。品尾さんは冗談がお好きだったから、開導聖人が心和むように楽しい会話を続けておられたかもしれない。時折、クスクスと笑って下さっていたかも知れない。

 今回、十石舟は三栖閘門と三栖閘門資料館まで行って下さった。その大きな水門の上は登れるようになっていて、宇治川が展望できる。この川を下って大阪に向かわれたのだ。

 海外信徒の方々に通訳している私の方が、感動で胸がいっぱいになった。

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