2009年5月17日日曜日

佛立教務道の一つについて

 更新に、時間が掛かってしまった。
 ようやく、京都でのご奉公から横浜に。結局、16日18時からの長松寺の御総講を終えて、ご面会の方とお話をさせていただいていて、日曜日早朝の新幹線で横浜に戻ってきた。
 新型インフルエンザが国内を騒がしている。このインフルエンザに関しては、2009年4月30日付「タミフルとギリアド・サイエンシズ社か…」 で書いたが、とにかく強毒性を持つものでなくてよかった。時を置かずして各国で人から人の感染がはじまり、WHOの警戒レベルが「フェーズ6」に上げられることは予想できた。水際対策など、日本政府の対応を見ていればジェスチャーに過ぎなかった。
 外務省は、2008年8月にWHOの出す警戒レベルに応じて「海外安全情報」を出す指針を発表していた。今でも外務省のウェブサイトには掲載されているが、そこにはWHOが「フェーズ5」に引き上げた時に「渡航延期勧告」を出すとしている。実際に新型インフルエンザで「フェーズ5」が出されたのは、ゴールデンウィークの真っ最中。これから本格的に旅行者が海外へと旅立つ直前だった。確かに、感染者は限定された国と地域に限られていた段階ではあるが、政府は「十分に注意してください」という曖昧な表現のままゴールデンウィークの旅行者を送り出していたと思う。「渡航延期勧告」とは、本門佛立宗がスリランカへの渡航(団参)を中止した勧告よりも上位にある警戒レベルだ。
 現在、日本の各地で感染者が出てきて、人から人の感染も確認されている。今後、大きく新型インフルエンザは広がっていくだろう。既に書いていたとおり、毒性が弱いのが何よりの救い。次回の「鳥インフル」への演習だと思うしかない。立正安国論に引用されている「衆病疾疫の難」との符号。
 さて、14、15、16日の朝は、京都に滞在していたこともあって本山宥清寺への朝参詣に出座させていただくことが出来た。大変にありがたかった。
 そこで、思う。妙深寺では、朝参詣の折には導師座において着座し、唱導・ご奉公させていただくのだが、本山では末座においてご奉公させていただく。ここで、他寺院の朝参詣に行って感じることよりも、多くのことを感じさせていただき、学ばせていただける。ちょっと感じたことを書いてみる。ご信者の方には分からないかもしれないが、正直な心境だ。
 一つ、すぐに思うのは、「御導師は大変だなぁ」ということ。導師役というものは、御経にある(妙法蓮華経従地涌出品第十五の二箇所にある)とおり、「唱導」しなければならないものなのだ。「唱えて、導く」のである。無始已来にしても、如来滅の文にしても、「唱えて導く」のであるから大変。腹から声を出し、参詣者一同の「声」を導かなければならない。導師役のご奉公というのは、並大抵ではない。何が言いたいかというと、つまり私は出座させていただいていて、「力を抜いている」わけではないのだが、やはり導師役と出座しているのとでは、緊張感が全く違う。いつもより声に力が入っていないのではないかと心配になる。「あぁ、御導師に甘えているのかな」と反省するのである。
 導師役は導師役でも、お看経で声がつぶれてしまっているのならまだしも、裏の部屋で冗談を言っている時の方が声が大きくて、導師座に座ると声が小さくなるような導師役では、当然ながら駄目だ。出座の教務も、教務室の方が元気というのは言語道断。末座にいる私のような者が、唱導いただいている御導師に、声も姿勢も甘えているようでは懈怠の罪を免れない。
 導師役と出座教務。もちろん、師弟であるから次元が違うのは当たり前の話だが、横浜と京都で違うご奉公をさせていただきながら、つぐつぐ、自分の心境の違い、ご奉公ぶりについて感じたのであった。
 横浜で導師役をさせていただいている時、特に御総講などで、余りにも言上文が多くなり(妙深寺はこの10年で何と御礼・御祈願が160%以上増加している)、声を出しすぎてノドがパンパンにふくらむことがある。血管が切れそうになる。もう言上方法も改良せねばならんと思っているが、10分以上も気合いを入れて言上していると、ノドがうっ血して、頭に血が上る。そうなるのだ。
 しかし、その言上中、お参詣している者、出座している者はどうしているか。当然、うっ血することもない。お参詣、出座しているだけなのだから。当たり前のことだが、この時間は休憩時間ではない。お看経の途中にある休憩時間と思っているようでは、間違いなく御利益はいただけない。功徳にもならない。台無しになる。御導師が言上していただいていることに、耳を立てなければ。
 お参詣者はまだしも、弟子として出座教務は御導師と同じ気持ちでご宝前に手を合わせ、お願いしていなければならない。そう思いつつ、それでもジッと下を向いて手を合わせていることは誘惑がたくさんある。しかし、負けてはならんのである。
 幼い頃、私の父・長松清凉師は、私に「あそこは、特別な場所だ」と何度も言って教えてくれた。教務になると、「本堂とは、教務にとっての舞台と同じ」と言われた。俳優のように演技をしろ、と言っておられたのではない。そこで、我を出していたり、使命を忘れていたら、ご信者方の信心を落としてしまう。あそこに上がったら、少なくとも「佛立教務」としての所作振舞に徹しなければならないと教えてくださったのである。
 いつも、「私は凡夫だ。ご信者に信心を教えてもらってる」と言ってはばからなかった先住。あくまで同じ凡夫として、背伸びせず、等身大のご奉公をと教えてくださったのに、「あそこでは」と仰せだった。演技などではなく、いつも教えていただいているように、しっかりと、ご信者方の信心を落とすようなことのないように、お看経、お給仕、所作振舞せねばならぬということだと思う。
 石川御導師は、「本堂での教務は前歯です。前歯が欠けていたら、どう思いますか?」と教えてくださった。「前歯が欠けていたら、格好悪いでしょう」と。
 いろいろと、学ばせていただきながら、明日からは横浜。朝参詣、御総講と、導師役のご奉公。分相応に、今回は導師役として、先住の教えを忘れず、気張らせていただこう。

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