アカデミー賞・外国語映画賞を受賞したことで、全世界から注目を集めた映画「おくりびと」。各国で上映され、高い評価を得続けている。暗いニュースばかり溢れる中で、久しぶりの朗報となった。
日本映画として初めてオスカーを受賞した快挙に日本中が沸いた。世界が認めたその映画の内容とは、実は日本人ですら馴染みの薄い、ある職業に関するものだった。
主人公は東京で夢に破れ、妻を連れて生まれ故郷である山形へと移り住む。就職先を探している中、ふと目にとまった求人広告。「旅のお手伝い」と書かれていた広告に、旅行代理店だと思って面接へ行く。
面接を受けてみると、その業務内容とは「旅」は旅でも「死出の旅」をサポートする葬祭業、特に遺体の「納棺」をする仕事だった。
親の遺体すらまともに見たこともない主人公は戸惑うが、社長に連れられて仕事を始めてゆく。
映画は、現代で社会の片隅へと追いやられている「死」とそれに関わる人々や出来事を描き出した。
本来、あらゆる人間にとって「死」は欠かせない通過点であり、誰もが経験してゆくものである。しかし、今やそれらは病院の中に閉じこめられたり、特別な人々にのみ委ねられたりしている。見て見ぬふり、本能的に忌み嫌われて、敬遠しがちな世界が、最も身近で遠い「おくりびと」の世界ということになる。
履歴書にも目を通さず、二万円を渡されて即採用となった主人公。月給は五十万円と言い渡される。特に仕事のあてもない彼は、迷いながらも就職することになった。
最初の仕事で、孤独死した老婆の遺体を納棺する。数週間を経過した遺体に身も凍るほどの経験をしたが、幾たびか「死」や「遺体」と向き合って仕事をしてゆく中で、充実感や使命感を抱いてゆく。
嘔吐するほどの経験をし、死臭が気になり、銭湯に行って鼻の中まで石けんで洗っていた主人公が、遺族と共に死者の尊厳を守りつつ、「死出の旅」へと送り出す仕事に感動を覚えていく。
彼の仕事の内容を知って、妻は「穢らわしい」と言って出て行き、友人も「挨拶せんでいい」「もっとマシな仕事さ就けや」と言い放つ。しかし、その友人の母の死などを通して、彼らも彼の仕事に畏敬の念を抱くようになってゆく。
納棺をする主演の本木雅弘氏の演技が美しかった。タブー視されがちな世界やそこに生きる人々を、ユーモアを交えて紹介してくれた。山形の田舎の小さな物語は、世界の人々の感動を誘った。「死」から学ぶことがある。「死」を除外した「生」などあり得ない。
「先臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」とお祖師さまが仰せになられたことを忘れてはならない。
しかし、「涙が止まらなかった」「感動しました」という観客の声を聞きながら、「ちょっと待てよ」と思う。この映画には僧侶の姿が見当たらない。出ているとしても、付け足しのようなものに過ぎない。やはり、何かおかしくないか。
私たちにとって、「おくりびと」は珍しい話ではない。世間は忌避していても、本物の仏教徒は今も身近に死を見ているし、ご信者の中に亡くなった方がいれば特別なことでもなく駆けつけ、深夜でもその家に伺って枕経をさせていただく。「寂光で開導聖人にお目通りするのに、病院の浴衣では申し訳ない」と、生前の礼服に近い物をお召しいただく。私が補助講師で最初に教えていただいたご奉公は、ご遺体にお洋服を着けていただくことだった。僧侶だからではない。
ご信者の皆さんと一緒にご遺体の枕もとで御題目をお唱えする。硬くなった身体が柔らかくなり、お召し替えをさせていただいたり、手にお数珠をかけさせていただいたり。このご奉公も教務とご信者さんでさせていただいてきたのだ。
俗習のような、頭への三角布や手甲も脚絆も着けない。頭陀袋に六文銭など入れもしない。それは本当に仏教なのかと首をかしげる。御題目のみ。これが、普通なのだ。
法号も死後に買うものではなく、故人が生前の功徳でいただくもの。何より、ご信心がなければ意味がない。生死に一貫しているものが信仰なのだから。
本門佛立宗のご信者さんたちは、社会から敬遠されがちな場所や人の所へ、率先して出向いてご奉公してきてくださった。
親しくない方でも、ご病気の方がおられると聞けばお伺いをしてお助行し、ご祈願する。貧しい方のお宅でも、その方が苦しい状態から逃れられるように心を尽くす。
ご信者のご家族の訃報を聞けば、忙しい予定をやりくりして、枕経からお通夜、お葬式まで一生懸命にご奉公される。葬儀屋さんではない。「無償」の「ご奉公」である。これらは「おくりびと」の何万倍も有難いではないか。本門佛立宗のご信者方こそ、本当の「おくりびと」であり、目には見えないがアカデミー賞に輝いているはずだ。
しかし、映画に僧侶の姿はない。それは映画の原点といわれている青木新門氏の著書「納棺夫日記」を読むと理由が分かる。そこには、実際に「納棺夫」として数多く葬儀の現場を見てきた著者の、葬式坊主に堕した僧侶への軽蔑が記されているし、世にある信仰への懐疑的な姿勢が明らかにされている。
著作を読み進めていくと、次のような言葉が出てくる。
「『死』は医者が見つめ、『死体』は葬儀屋が見つめ、『死者』は愛する人が見つめ、僧侶は『死も死体も死者』もなるべく見ないようにして、お布施を数えている」
本を読んでいると、何とも言えない気持ちになる。恥ずかしながら、僧侶の堕落は世の人の知るところだ。しかし、本門佛立宗の教講にこれは当たらない。私たちは、「死」も見つめ、「死体」も見つめ、「死者」も見つめる。これが、佛立の文化であり、教えであり、真実。それを著者は知らない。いや、知っていたとしても屈折して眺めている。
「納棺夫」だった著者の経験は尊敬に値するが、親鸞に傾倒し、特に、御題目のご信心を屈折して見ていることが哀しい。全般に、広範な知識がありながら、隠者のような自己解釈が目立つ。宗教者でも信仰者でもないのだから仕方がないといえばそうだが、あまりに残念だ。
浄土三部経・無量寿経の偈文、浄土真宗では「讃仏偈」というが、その冒頭にある「光顔巍巍」を、御仏の真意を脇に置いて著者が感じた世界として広げていく。このブログでも先日紹介したばかりの井村和清氏著「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」の言葉や宮沢賢治の詩、その他多くの言葉や著書を結びつけて、結果的には親鸞や浄土信仰の世界を紹介している。それは、現場に徹した著者個人の到達点ではあるが、無理に結びつけられた宮沢賢治や他の人にとっては心外な話ではないか。彼に指導できる浄土真宗の僧侶はいないだろう。現場主義者で博学な著者が真実の仏教を理解することも難しいように思う。
「宗々の祖師におろかはあるまいと いふて佛によらぬ信心」
「慢心のおこりはじめや師を捨て おのれ師匠にならんとぞする」
「ものしりが信者の敵となるをりと しりて相手にせぬぞかしこき」
死者への理解はできても他者への理解は難しい。やはり、著者にとって納棺とはあくまでも「仕事」であったのだと思う。このアカデミー賞を受賞した映画「おくりびと」は、「納棺夫日記」と一線を画した。著者の青木氏は、映画の舞台が富山ではなく山形になっていたことや上記のような本人の宗教観が反映されていないことなどから、映画「おくりびと」と関係することを拒否したという。これは、結果的には幸いだったと思う。偏った宗教観が映画化されなかったのだから。
いずれにしても、葬儀社の進化は著しい。遺体のお召し替えや湯灌等、もう素人の出る幕ではないと言われてしまう。しかし、そんな時代になっても佛立信仰が色あせてはいけない。私たちは、仕事ではなく、亡くなった方の枕元に座り、ご遺体と向き合い、ご遺族とも向き合う。正しく御仏の教えを実践して寂光にお送りする、お帰りいただくのである。
「生き恥かいても死に恥かくな」「死に化粧は自分では出来ない」「死に顔に責任を持て」とは先住が常に教えてくださったことであり、門下に受け継がれてきた教えだ。死体が腐ることくらい知っている。しかし、その「死」の姿の中に、私たちは「生」を見よと教えていただくのだ。
今や「おくりびと」の充実感や使命感を抱いている佛立の信者も少なくなってきたように感じる。難しいことだと思う人が多いのかもしれないし、世間的な感覚でご奉公を敬遠する人が、佛立宗のご信者の中にもおられるようになったからかもしれない。もちろん、佛立信者全員に「納棺しなさい」とは言わない。しかし、まだこうしたご奉公をしたことがないという人にも、私たち佛立信者は「ご信心」で「おくりびと」の主人公が感じたような充実感や使命感を抱き、心が満たされるようになることを知ってほしい。ごくごく、自然に、自他を越えた生死に関与できる。その中で、膨大なことを学べる。「死」を見据えるからこそ「生」が輝きを増すことだけは真実だ。
私は、佛立宗のご信者のみなさんが、アカデミー賞の受賞者のような気持ちでいる。一般的に遠ざけられがちな世界で、ひたむきにご奉公してきてくださった。本当に、ありがたい。みんな、一隅(かたすみ)を照らす人だったのだから。
いま、国内でもこうした人たちにスポットが当たるようになったことは嬉しい。その上で、本門佛立宗のご信者みなさんが、常に「おくりびと」であったこと、「おくりびと」であることを知って欲しい。
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