2010年12月1日水曜日

班長さんへの手紙 平成22年12月

ありがとうございます。

今年も師走となりました。一年間を振り返り、きちんと締め括りを致しましょう。妙深寺の十二月は「心の大掃除」の月です。

開導聖人は御指南に、
「懺悔は悪魔退散の祈祷也。
懺悔する心の内のすゝはきに 悪魔のほこりたゝき出されぬ。
悪魔とは病・貧・死の三神也」
とお示しです。「疫病神」「貧乏神」「死神」は三兄弟。油断すると家に入り込んできます。反省と改良を決意した「お懺悔」こそ、この三兄弟を近づけない秘訣であり、幸せの秘訣、災難除滅の秘訣です。どうか、身も心も軽くして、次の一歩が踏み出せるよう、しっかりと一年を締め括りましょう。

御教歌
「怠りの魔軍を責て弘むべし まけてはならぬ祖師の御味方」

人生は、自転車のようなもの。自転車は停まっていると一番バランスが悪いものです。少しでも前に進んで、ゆっくりでも走り出せば、バランスは保てるようになります。私たちも、頭で考えている間は駄目です。止まっていては駄目です。少しでも動くこと、動き出すことが大事なのです。

善いことをさけまいとするエネルギーがあります。功徳を積むことよりも罪障を積むことの方が凡夫には気持ちいいものですし、快楽ですらあります。

何度も申しますが、「人のせい」にするのは、真実の仏教を知らない人のすることです。自分の「謗法」が動けなくしている、自分の中の「罪障」がご奉公をさせません。それが罪障の本体なのです。
凡夫は、自分以外の、周りの人や状況に邪魔されてご奉公が出来ないと言います。末法ではご奉公が出来ない理由はいくらでも見つかります。

しかし、そこに「魔」があり「罪障」がある。結局、周りのせいにして素直正直なご信心やご奉公から離れてしまった人は、疫病神や貧乏神、死神にも取り憑かれて、苦労ばかりしています。負け惜しみや痩せ我慢をしていても、無理に無理を重ねているのが見えます。素直に懺悔改良すればいいのです。しかし、それでも出来ないのが、恐ろしくも哀れなところです。

動けなくするのは自分の心です。自分の中の罪障が、お看経やお参詣、御法門聴聞やご奉公をさせなくしています。自分の心の中に「怠り」が生まれる。これを「怠りの魔軍」とお示しです。これに負けたら、ご奉公しません。喜んでご奉公出来ません。善なる力は、もうピタッと止まってしまう。だから、人生のバランスが悪くなるのです。人生は自転車です。少しでも前に、前向きに、歩みを進めなければならないのです。

先日、法深寺の高祖会で聴聞させていただいた御法門は、こうした反省を促していただきました。

「小人閑居して不善を為す。」(大学)

「小人(しょうじん)」とは「徳のない人」「器量が小さい人」「思慮分別の足りない子ども」を指しています。誰もそんな人間にはなりたくありませんが、結果「小人」になってしまっていると気づくもの。ですから、その「小人(しょうじん)」が「暇(閑)」になってどうする、と。「つまらない人間が暇でいたら、ろくなことをしない」という意味を教えた言葉。忙しさに暇を求める私たちの心に、別の角度から光を当ててくださいます。

ご信心は、罪障消滅と積功累徳の道ですから、決して離れてはいけません。ご奉公を外れて時間が出来ても、三毒強盛の凡夫にとってはろくなことがないということです。

「小人(しょうじん)窮(きゅう)すれば斯(ここ)に濫(らん)す」(論語)

「徳のない品性の欠けた者は、困窮すると自暴自棄になって悪いことをしてしまう」

こうなってはいけません。「小人(しょうじん)」という言葉の逆側に「大人(たいじん)」という言葉があります。読んで字の如く「おとな」です。大人は子どものように駄々をこねることもなく、自分の気分次第で動くことはありません。相手を思いやり、物事の因果を弁える人のことです。こうした方は、周りに配慮しながら、善行であるご奉公を続けてゆきます。

「敵は○○にあり!」ではなく「敵は自分の心の中にあり!」です。怠りの心に負けない、負けてはならない、と決意して、幸せの道を外れずに生きてゆきましょう。

負けるわけにはいきません。祖師の御味方は「大人」のあなたですから。

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