2015年12月16日水曜日

そんな時代の中で

昨日をもって、本年度の、横浜・妙深寺の教区御講11席を、全て終えさせていただきました。

一年間のご奉公、ありがとうございました。

御講は、佛立信行の命とも、根幹とも教えていただきます。

私たちが法を説かせていただき(法施)、在家の方がお布施をお包みくださる(財施)。

佛立教務のあらゆるご奉公は、この御講によって支えられており、佛立信徒の三宝護持は御講願主としてご奉公することにあります。

ですから、教講ともに、どれだけ真剣に御講に臨むかが、問われているのですね。

本年最後の教区御講では、旭が教えてくれていることを、真剣に、丁寧に、頂戴してきました。

93才の小松さん、昨日の教区御講で、お元気にご挨拶くださいました。

小松さんは、若いお役中さんが話している時に、大切なお折伏をくださるのだと、梶さんが教えてくださいました。

老若男女、本当にありがたいなぁ。

今年も、素晴らしい御講の思い出がたくさん出来ました。

旭。

若き青年を失った妙深寺の私たちは、ここから何を感じて、何を学び取り、どう変わり、どう生きてゆくべきか。

旭、全身全霊で、受け止めているからね。

毎月毎月、一席一席、大切にご奉公させていただいてきた平成27年も、終わりに近づいてきました。

まだ、今夜は京都長松寺のお総講、18日は清和会御講、19日に長野別院長野教区の教区御講、本晨寺の住職御講がありますので、精一杯勤めさせていただきます。

お見送りのご奉公もあります。

ネパールに行く前、厳しい余命宣告を受けた方のお助行に伺いました。

ご本人はもとより、家族にとって、どれだけの苦しみか、想像もつきません。

私も、父の余命が「一年」と聞いた時、冷静に先生の説明を聞こうとメモを取りながら、止めどもなく涙が溢れ出てきたことを、鮮明に覚えています。

いつか別れが来る。

いつか順番が来る。

分かっているはずの無常の中で、それでも愛する人との別れは、苦しく、寂しく、辛いものに違いない。

愛別離苦を、別の思考で切り離さなくてもいい。

ただ、それを受け止めて、乗り越えて、どう生きてゆくかということだけ。

また、小田原の佐野さんのお祖母さまが亡くなられたという連絡も飛び込んできました。

日博上人を支えた大功労者である佐野さん。

99才という長寿をいただかれました。

約10年前、行方不明となり、意識が混濁していた佐野さんのおばあちゃんを、ベッドで抱きしめたことを、忘れることは出来ません。

その後、お元気になられて、これこそ佛立信徒であるという姿を見せてくださいました。

95才を過ぎても、ご信心の有難さを看護師の方々にお話しし、お教化の気持ちを持ち続けておられました。

最近、それこそ臨終が迫り、薄れてゆく意識の中にあっても、気がつくと「本門八品所顕 上行所伝 本因下種の南無妙法蓮華経」と、ベッドの中でお唱えされていたとのこと。

そんなあまりに神々しい姿を、ご家族は映像やテープに録って、残してくださっています。

本物です。

京都に来ると、変なお墓のコマーシャルが流れます。

信仰もなく、こういう場所を求めている人がいるのですね。

インターネットの百貨店のようなamazonで、「お坊さん」が商品になったということも聞きました。

家族が亡くなったら、クリック1つで発注して、amazonの箱に入って、お坊さんが届き、お葬式を勤めて、帰ってゆくのかしら。

そういう時代なのだし、そういうことでいいと思っている人もいるのだから、ある意味で仕方ない。

仏陀が見たように、多くの人が、自己肯定の、正常性バイアスの、妄想と幻想の中で、自業自得の、煩悩の網の中に、生きているのか。

そんな時代だからこそ、生きた仏教、本物の仏教、そうした僧侶、信徒の方々が、尊いと思うのだけれど。

今年、私たち妙深寺は、一人の青年を失いました。

旭が逝き、そこから学ぶべきことが、ありました。

今夜も、京都で、そのことを説かせていただきたいと思います。

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