平成23年度 妙深寺 高祖会 メインテーマ「生きる」
第二座 御法門 サブテーマ「ひとつ」
御教歌
「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
本年を締めくくる高祖会、第二座を奉修させていただきました。昨日は秋山御住職をお迎えし、第一座を奉修いただきました。被災された現地から、福田さんもお参詣くださり、大変貴重なお話を伺わせていただくことができました。約500名という本当にたくさんのお参詣をいただき、本当にありがたい気持ちでいっぱいです。千年に一度と言われる大震災が起きた年の高祖会ですから、一生に一回という思いで締めくくっていただけたらありがたいと思います。
それでは、御教歌を拝見させていただきます。
御教歌に、「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
佛立開導日扇聖人が『十巻抄』という最も重要な御指南書にお示しくだされた御教歌でございます。
本年は色々なことがございました。しかし私たちは、今、生きている。生かされている。このめぐみ、この大慈大悲、優しさ、温かさを、片時も忘れず、人を生かす、人を救う、支え、助ける、佛立菩薩として生きることが大切とお示しの御教歌でございます。
11月8日は、旧暦でお祖師さまの祥月ご命日でした。言うまでもなく、お祖師さまは、上行菩薩としてこの世に御題目をお届けくださったお方であります。この御題目は、どのような人種、どのような言語、どのような知識、学問のレベルや年齢であろうと関係なく、必ず現証の御利益を顕す、マントラ、万能のお薬、妙不可思議の御力を持つものです。
この歴史上、数え切れないほど多くの人が、この御題目によって救われ、妙不可思議の御利益を目の当たりにしてきました。私自身も、絶体絶命の先住(父)の怪我、家族が絶望のどん底に落ちたところから、御題目で救っていただいた。他にも数え切れない不思議な現証を拝見させていただき、今でも、毎月の妙深寺報にも、たくさんの人がその不思議を感じておられる。もはや、疑う余地はないわけです。
ダメなものがダメでなくなる。とにかく御題目、ここに極まる。誰であろうと、この「御題目をお唱えする」という味わいを知っていただければ、それで必ず今日の高祖会のテーマである「生きる」ということの本当の意味が分かっていただけると思います。
今も言上させていただきましたが、お看経などのとき、私たちはお祖師さまのお名前をお呼びするときに、「高祖日蓮大菩薩、大慈大悲大恩報謝」と言上いたします。この「大慈大悲」とは、「すべての人の苦悩を取り除き、すべての人々に幸せを与える」というのが「大慈大悲」の意味です。
お祖師さまは、この御題目によって、このご信心によって、私たち一人ひとりが抱えている苦しみや悩み、それが病気の問題であろうと人間関係やお金の問題であろうと、それを取り除き、マイナスの方向からプラスの方向に向かわせよう。しかも、このわずかな一生だけではなく、私たちが今生きている「一生」が終わった後、死後、来世まで、「苦しみを取り除き、楽を与える」という覚悟でご奉公くださったのであります。
それを、改めてこのことを思い出してみなさいと、御教歌にお詠みくださっている。
このお祖師さまの、大きな、大きなご恩に、少しでも報いたい、ご恩返しをさせていただきたいと思い励むことを「大恩報謝」と言います。つまり、これが「大慈大悲大恩報謝」という言葉の意味です。
冒頭に申しましたとおり、私たちは、いま、生きています。しかし、人間の赤ん坊を思えば分かるとおり、たとえ無事に産まれても、誰かのお世話にならなければ、私たちは数日で死んでしまう。生き続けることはできない。
つまり、「生まれた」は「生きる」とイコールではない。誰かのおかげでやっと「生き延びた」「生きられるようになった」ということになります。
しかし、このことを、私たちは忘れてしまう。生きていることが、さも当然の、当たり前のことのようになってしまう。「生かされてきた」「生かされている」ということを忘れてしまう。「自分で勝手に育ってきた」と思うようになってしまう。これほどの間違い、過ちはありません。
千年に一度という大震災で、今なお多くの方が行方不明のままの状態、約2万人の方々が、瞬時に命を奪われ、家族を失った恐ろしい出来事を通じて、改めて、こうしたおごった気持ちの間違いに気づくべきであるということを、突きつけられています。「生きる」ということ。
昨日の秋山御住職のお話でも、とにかく自分も被災したが「生かされた」と思った。そして「だからこそ、生き残った自分がしなければならない」と思った。「誰かがやるだろう。しかし、僕はその誰かになりたい」と仰っておられました。
陸前高田の「うごく七夕まつり」を実現した福田さんも、「仲間もたくさん死んでしまいました。でも、生き残った僕たちが子どもたちの笑顔のために、何かしなきゃいけないんだと思ったんです」とお話をくださいました。
そうした秋山御住職や福田さんがお話しくださったように、「生かされている」が、「生きる」となる。本当の「生きる」とは、他の人の命まで「生かす」ということ。それで初めて「生きる」なんだ、と。「生かされている」がなければ「生きる」ではない。せっかく生きているのに、自分一人のことばかり考え、誰かの命を「生かす」、誰かのために生きるということを忘れていれば、死んでいるのと同じになってしまう。
末法悪世に生まれた、欲深く、嫉妬深く、勘違いしやすい凡夫は、ここに気付かなければなりません。ここが分からないと、一生「生きる」が分からない。一生「生きられない」「生きていない」ことになる。
ですから、私たちはこうした出来事から学び、また、お祖師さまの大慈大悲を感じて、生き改める、生き直す、ということが大事。
ひな鳥は巣の中で鳴きながら親鳥が運んでくる餌を待ち、その餌を食べて成長します。そして、成長すれば、今度は自分がひな鳥のために餌を運び、命を養う側に立ちます。
赤ん坊として生まれて来てから、みんなのお世話で生かされてきた、生きている私たち、生き残った私たちがすべきことは何か。ここを考えなければ、震災後の支援活動も、御題目に出会った者の本当の「生き方」も、分かりません。苦しみも取り除かれず、幸せにもなれない。
生かされた者は、それに感謝して、誰かのための「生きる」を始めよう。御題目による現証の御利益を見た者は、今度は誰かを救うために、菩薩として「生きる」を始めていただきたい。
「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
お祖師さまは、苦しみや迷いに直面する私たちの命を、「生かす」ためにご奉公くださいました。この一生だけではなく、その死後まで「生かす」ため。
「仏教が霊魂の存在を否定した」とか、「ブッダは死後の世界を認めなかった」とか、「仏教は哲学である」とか、「仏教はただ人間の心の平穏を得るための方法を教えただけである」という近代仏教学の提唱は、根本的な大間違いです。中村元氏や司馬遼太郎氏などは、「中論」や「唯識論」が過激に進めた反実体論だけを取り上げ、それでいて唯物論的世界観や自然科学の手法に影響されて仏教を規定してしまった。彼らは仏陀が霊魂や死後の世界を無いと説いたと考え、それが新しい仏教理解、それが高度成長期のインテリの、最先端の考え方だと思ってしまった。これは実に不幸なことでした。少なくとも私はそう思います。
最も古い経典の一つ、ブッダの肉声が納められていると言われているスッタニパータには、次のようにあります。
「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける」
「罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない」
「有る」「無し」を論じるよりも、ここに厳然と存在する因果の道理を見据えなければなりません。
現世と来世を救う教えが仏教であり、仏道であり、お祖師さまのなされた大慈大悲のご奉公であり、現実、上行所伝の御題目は現証の御利益によって多くの人々の苦悩を取り除き、思いも寄らない幸せを与えてくださっています。来世が救われるかどうか、死後の世界があるかどうか。それは、今を見れば分かります。大慈大悲の尊いみ教え、揺るぎないただ一つの真理、真実です。
お祖師さまは法蓮抄という御妙判に、「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と、お諭しくだされています。いま、人々が救われていくのを見れば分かるはずだ、と。
世の中には、「つぶやき」が溢れています。「つぶやき」のことを「ツイート」と呼ぶそうで、実は私も「ツイッター」というものをやっています。しかし、「つぶやき」で世の中がよくなると思いますか?
良くなるはずがありません。むしろ、きっと悪くなる。ブログというものもありますが、いい加減な情報が溢れかえっています。スピリチュアル系のブームは、今や物体から知識に変わってきています。昔はヘンテコな石やブレスレットやネックレスを買って、着けたり、部屋に置いておいたりするだけだったのですが、今は違う。インターネットに氾濫する偏った理論の迷路に入り込んでいる人が多いのです。本当の意味の「セクト」が乱立している。宗教とも理学療法ともつかない。民間療法や勝手理論です。今やオウム真理教と変わらない、雑多な思想を組み合わせた「信仰」が、ネットの中に溢れています。
本当に恐ろしい時代になります。恐ろしい人生になります。これでは宇宙だ、地球だ、人類だと言っていても、平和など来るわけがない。普遍的じゃない。その人にも穏やかな人生が来るわけがない。それが分からない。分からないで、入って行ってしまう。哀しいことであり、恐ろしいことです。
今日の第二座は、サブテーマに「ひとつ」と題しましたが、これは「お祖師さまとひとつになりなさい」ということです。それこそが、幸せのサイクルに入る秘訣、極意です。エセ科学、エセ心理学やセクトに入り込むのでも、「生かされている」ことを忘れて一生を過ごすのでもなく、ここで「ひとつ」になること。
お祖師さまの大慈大悲の中で「ひとつ」になり、御題目をいただいていた「ひな鳥」から成長して、今度は自分がひな鳥を生かし、育てようと、菩薩の生き方に励む。これが極意を身につけた人です。かならず、この方は幸せのサイクルの中に入っていきます。
今のご自分の状況をよく考えてください。幸せのサイクルに入ると、本当に不思議といい縁に恵まれます。そして、一日の中にいいことがたくさん見つかるようになります。トラブル、災いから逃れさせていただく。不思議に家庭も円満で、仕事もうまく回っていく。
しかし、この逆がある。不幸のサイクルです。いま言ったことを、すべて逆にしてみれば分かります。悪い縁ばかり来る。いい縁が来ない。一日を振り返っても、いいことがない。悪いことばっかり。だから夜はイライラする。虚しくなる。孤独だ。ネットや何かで紛らわす。災難に遭う。家庭の中がゴタゴタ、ガタガタする。仕事がうまくいかない、良いところまでいって、必ず大きな壁が出てくる。
それは、この極意、「ひとつ」になってないからなんです。大慈大悲とひとつになっていない。まだ、「生きる」が分からない、「生きる」ができていないからだと教えていただくのです。
仏教は、お祖師さまがいなければ、正しく理解できず、何をしていいのかも分からなかった。お祖師さまの存在を認めなければ、仏教の知識をいくら使っても、つなぎ合わせても、普遍的な真理を得ることはできない。幸せになることはないし、苦しみから逃れることもできないのです。
社会が行き詰まり、大自然の悲鳴、あるいは恫喝、あるいは痙攣が人間を苦しめるような事態の中で、私たちは、御仏の、お祖師さまの教えてくださった「生きる」ということ、つまり「私たちは生かされている」「生きるとは他のために生きること」に、素直に立ち戻って、再スタート、再生をすべきなのです。
今、毎日お参詣をされている新谷さん、車イスに乗られながら、毎朝毎朝お参詣を続けておられます。本当に頭が下がります。
また、今、黒崎さんと一緒に、境内地の掃除を毎日のように一生懸命してくれている岩本龍二君。龍二君は先住と同じように、交通事故で脳挫傷、頭蓋骨骨折で、何ヶ月も意識不明だった。そのころ、まだお母さんはご信者さんではなかったが、同じ職場で働いていた板倉さんを頼ってお寺に来た。そして話をして、何とか御利益をいただいてほしいということで、ご信心をすることになった。そして、岩本さんの入信の言上を先住が上げられたその日に、龍二君の意識が目覚めた。大変な御利益を頂かれました。それから15年以上が経ち、色々なことがあり、最近、また本当に苦しいことがあって、そこから、今、もう一度、生き直そうとしてお寺の清掃ご奉公に励まれています。もう一度原点に立ち戻って、あのとき、本当は死んでいたかもしれない命を助けていただいたじゃないか、と気付いてくれた。先日、彼はご信者さんの前で「僕はあのとき御法さまに生かされたんだ」と言ってくれた。本当に涙が出ました。
どうか、私たちは、いま、生きています。それは生かされているということです。この貴重な命を無駄にすることなく、生きる、生きていく、生かしていくために、片時もその御恩を忘れず、お祖師さまとひとつになって、その大慈大悲の一分でもお返しできるように、人を生かす、人をも救う、佛立菩薩としてご信心、ご奉公させていただくことが大切と、お教えいただく御教歌でございます。
第二座 御法門 サブテーマ「ひとつ」
御教歌
「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
本年を締めくくる高祖会、第二座を奉修させていただきました。昨日は秋山御住職をお迎えし、第一座を奉修いただきました。被災された現地から、福田さんもお参詣くださり、大変貴重なお話を伺わせていただくことができました。約500名という本当にたくさんのお参詣をいただき、本当にありがたい気持ちでいっぱいです。千年に一度と言われる大震災が起きた年の高祖会ですから、一生に一回という思いで締めくくっていただけたらありがたいと思います。
それでは、御教歌を拝見させていただきます。
御教歌に、「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
佛立開導日扇聖人が『十巻抄』という最も重要な御指南書にお示しくだされた御教歌でございます。
本年は色々なことがございました。しかし私たちは、今、生きている。生かされている。このめぐみ、この大慈大悲、優しさ、温かさを、片時も忘れず、人を生かす、人を救う、支え、助ける、佛立菩薩として生きることが大切とお示しの御教歌でございます。
11月8日は、旧暦でお祖師さまの祥月ご命日でした。言うまでもなく、お祖師さまは、上行菩薩としてこの世に御題目をお届けくださったお方であります。この御題目は、どのような人種、どのような言語、どのような知識、学問のレベルや年齢であろうと関係なく、必ず現証の御利益を顕す、マントラ、万能のお薬、妙不可思議の御力を持つものです。
この歴史上、数え切れないほど多くの人が、この御題目によって救われ、妙不可思議の御利益を目の当たりにしてきました。私自身も、絶体絶命の先住(父)の怪我、家族が絶望のどん底に落ちたところから、御題目で救っていただいた。他にも数え切れない不思議な現証を拝見させていただき、今でも、毎月の妙深寺報にも、たくさんの人がその不思議を感じておられる。もはや、疑う余地はないわけです。
ダメなものがダメでなくなる。とにかく御題目、ここに極まる。誰であろうと、この「御題目をお唱えする」という味わいを知っていただければ、それで必ず今日の高祖会のテーマである「生きる」ということの本当の意味が分かっていただけると思います。
今も言上させていただきましたが、お看経などのとき、私たちはお祖師さまのお名前をお呼びするときに、「高祖日蓮大菩薩、大慈大悲大恩報謝」と言上いたします。この「大慈大悲」とは、「すべての人の苦悩を取り除き、すべての人々に幸せを与える」というのが「大慈大悲」の意味です。
お祖師さまは、この御題目によって、このご信心によって、私たち一人ひとりが抱えている苦しみや悩み、それが病気の問題であろうと人間関係やお金の問題であろうと、それを取り除き、マイナスの方向からプラスの方向に向かわせよう。しかも、このわずかな一生だけではなく、私たちが今生きている「一生」が終わった後、死後、来世まで、「苦しみを取り除き、楽を与える」という覚悟でご奉公くださったのであります。
それを、改めてこのことを思い出してみなさいと、御教歌にお詠みくださっている。
このお祖師さまの、大きな、大きなご恩に、少しでも報いたい、ご恩返しをさせていただきたいと思い励むことを「大恩報謝」と言います。つまり、これが「大慈大悲大恩報謝」という言葉の意味です。
冒頭に申しましたとおり、私たちは、いま、生きています。しかし、人間の赤ん坊を思えば分かるとおり、たとえ無事に産まれても、誰かのお世話にならなければ、私たちは数日で死んでしまう。生き続けることはできない。
つまり、「生まれた」は「生きる」とイコールではない。誰かのおかげでやっと「生き延びた」「生きられるようになった」ということになります。
しかし、このことを、私たちは忘れてしまう。生きていることが、さも当然の、当たり前のことのようになってしまう。「生かされてきた」「生かされている」ということを忘れてしまう。「自分で勝手に育ってきた」と思うようになってしまう。これほどの間違い、過ちはありません。
千年に一度という大震災で、今なお多くの方が行方不明のままの状態、約2万人の方々が、瞬時に命を奪われ、家族を失った恐ろしい出来事を通じて、改めて、こうしたおごった気持ちの間違いに気づくべきであるということを、突きつけられています。「生きる」ということ。
昨日の秋山御住職のお話でも、とにかく自分も被災したが「生かされた」と思った。そして「だからこそ、生き残った自分がしなければならない」と思った。「誰かがやるだろう。しかし、僕はその誰かになりたい」と仰っておられました。
陸前高田の「うごく七夕まつり」を実現した福田さんも、「仲間もたくさん死んでしまいました。でも、生き残った僕たちが子どもたちの笑顔のために、何かしなきゃいけないんだと思ったんです」とお話をくださいました。
そうした秋山御住職や福田さんがお話しくださったように、「生かされている」が、「生きる」となる。本当の「生きる」とは、他の人の命まで「生かす」ということ。それで初めて「生きる」なんだ、と。「生かされている」がなければ「生きる」ではない。せっかく生きているのに、自分一人のことばかり考え、誰かの命を「生かす」、誰かのために生きるということを忘れていれば、死んでいるのと同じになってしまう。
末法悪世に生まれた、欲深く、嫉妬深く、勘違いしやすい凡夫は、ここに気付かなければなりません。ここが分からないと、一生「生きる」が分からない。一生「生きられない」「生きていない」ことになる。
ですから、私たちはこうした出来事から学び、また、お祖師さまの大慈大悲を感じて、生き改める、生き直す、ということが大事。
ひな鳥は巣の中で鳴きながら親鳥が運んでくる餌を待ち、その餌を食べて成長します。そして、成長すれば、今度は自分がひな鳥のために餌を運び、命を養う側に立ちます。
赤ん坊として生まれて来てから、みんなのお世話で生かされてきた、生きている私たち、生き残った私たちがすべきことは何か。ここを考えなければ、震災後の支援活動も、御題目に出会った者の本当の「生き方」も、分かりません。苦しみも取り除かれず、幸せにもなれない。
生かされた者は、それに感謝して、誰かのための「生きる」を始めよう。御題目による現証の御利益を見た者は、今度は誰かを救うために、菩薩として「生きる」を始めていただきたい。
「我祖師の めぐみは此世 ばかりかは のち世かけての お慈悲なりけり」
お祖師さまは、苦しみや迷いに直面する私たちの命を、「生かす」ためにご奉公くださいました。この一生だけではなく、その死後まで「生かす」ため。
「仏教が霊魂の存在を否定した」とか、「ブッダは死後の世界を認めなかった」とか、「仏教は哲学である」とか、「仏教はただ人間の心の平穏を得るための方法を教えただけである」という近代仏教学の提唱は、根本的な大間違いです。中村元氏や司馬遼太郎氏などは、「中論」や「唯識論」が過激に進めた反実体論だけを取り上げ、それでいて唯物論的世界観や自然科学の手法に影響されて仏教を規定してしまった。彼らは仏陀が霊魂や死後の世界を無いと説いたと考え、それが新しい仏教理解、それが高度成長期のインテリの、最先端の考え方だと思ってしまった。これは実に不幸なことでした。少なくとも私はそう思います。
最も古い経典の一つ、ブッダの肉声が納められていると言われているスッタニパータには、次のようにあります。
「何者の業も滅びる事はない。それは必ず戻ってきて業を作った本人がその報いを受ける。愚者は罪を犯して来世にあってはその身に苦しみを受ける」
「罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなし、おろそかにしてはならない」
「有る」「無し」を論じるよりも、ここに厳然と存在する因果の道理を見据えなければなりません。
現世と来世を救う教えが仏教であり、仏道であり、お祖師さまのなされた大慈大悲のご奉公であり、現実、上行所伝の御題目は現証の御利益によって多くの人々の苦悩を取り除き、思いも寄らない幸せを与えてくださっています。来世が救われるかどうか、死後の世界があるかどうか。それは、今を見れば分かります。大慈大悲の尊いみ教え、揺るぎないただ一つの真理、真実です。
お祖師さまは法蓮抄という御妙判に、「近き現証を引いて遠き信を取るべし」と、お諭しくだされています。いま、人々が救われていくのを見れば分かるはずだ、と。
世の中には、「つぶやき」が溢れています。「つぶやき」のことを「ツイート」と呼ぶそうで、実は私も「ツイッター」というものをやっています。しかし、「つぶやき」で世の中がよくなると思いますか?
良くなるはずがありません。むしろ、きっと悪くなる。ブログというものもありますが、いい加減な情報が溢れかえっています。スピリチュアル系のブームは、今や物体から知識に変わってきています。昔はヘンテコな石やブレスレットやネックレスを買って、着けたり、部屋に置いておいたりするだけだったのですが、今は違う。インターネットに氾濫する偏った理論の迷路に入り込んでいる人が多いのです。本当の意味の「セクト」が乱立している。宗教とも理学療法ともつかない。民間療法や勝手理論です。今やオウム真理教と変わらない、雑多な思想を組み合わせた「信仰」が、ネットの中に溢れています。
本当に恐ろしい時代になります。恐ろしい人生になります。これでは宇宙だ、地球だ、人類だと言っていても、平和など来るわけがない。普遍的じゃない。その人にも穏やかな人生が来るわけがない。それが分からない。分からないで、入って行ってしまう。哀しいことであり、恐ろしいことです。
今日の第二座は、サブテーマに「ひとつ」と題しましたが、これは「お祖師さまとひとつになりなさい」ということです。それこそが、幸せのサイクルに入る秘訣、極意です。エセ科学、エセ心理学やセクトに入り込むのでも、「生かされている」ことを忘れて一生を過ごすのでもなく、ここで「ひとつ」になること。
お祖師さまの大慈大悲の中で「ひとつ」になり、御題目をいただいていた「ひな鳥」から成長して、今度は自分がひな鳥を生かし、育てようと、菩薩の生き方に励む。これが極意を身につけた人です。かならず、この方は幸せのサイクルの中に入っていきます。
今のご自分の状況をよく考えてください。幸せのサイクルに入ると、本当に不思議といい縁に恵まれます。そして、一日の中にいいことがたくさん見つかるようになります。トラブル、災いから逃れさせていただく。不思議に家庭も円満で、仕事もうまく回っていく。
しかし、この逆がある。不幸のサイクルです。いま言ったことを、すべて逆にしてみれば分かります。悪い縁ばかり来る。いい縁が来ない。一日を振り返っても、いいことがない。悪いことばっかり。だから夜はイライラする。虚しくなる。孤独だ。ネットや何かで紛らわす。災難に遭う。家庭の中がゴタゴタ、ガタガタする。仕事がうまくいかない、良いところまでいって、必ず大きな壁が出てくる。
それは、この極意、「ひとつ」になってないからなんです。大慈大悲とひとつになっていない。まだ、「生きる」が分からない、「生きる」ができていないからだと教えていただくのです。
仏教は、お祖師さまがいなければ、正しく理解できず、何をしていいのかも分からなかった。お祖師さまの存在を認めなければ、仏教の知識をいくら使っても、つなぎ合わせても、普遍的な真理を得ることはできない。幸せになることはないし、苦しみから逃れることもできないのです。
社会が行き詰まり、大自然の悲鳴、あるいは恫喝、あるいは痙攣が人間を苦しめるような事態の中で、私たちは、御仏の、お祖師さまの教えてくださった「生きる」ということ、つまり「私たちは生かされている」「生きるとは他のために生きること」に、素直に立ち戻って、再スタート、再生をすべきなのです。
今、毎日お参詣をされている新谷さん、車イスに乗られながら、毎朝毎朝お参詣を続けておられます。本当に頭が下がります。
また、今、黒崎さんと一緒に、境内地の掃除を毎日のように一生懸命してくれている岩本龍二君。龍二君は先住と同じように、交通事故で脳挫傷、頭蓋骨骨折で、何ヶ月も意識不明だった。そのころ、まだお母さんはご信者さんではなかったが、同じ職場で働いていた板倉さんを頼ってお寺に来た。そして話をして、何とか御利益をいただいてほしいということで、ご信心をすることになった。そして、岩本さんの入信の言上を先住が上げられたその日に、龍二君の意識が目覚めた。大変な御利益を頂かれました。それから15年以上が経ち、色々なことがあり、最近、また本当に苦しいことがあって、そこから、今、もう一度、生き直そうとしてお寺の清掃ご奉公に励まれています。もう一度原点に立ち戻って、あのとき、本当は死んでいたかもしれない命を助けていただいたじゃないか、と気付いてくれた。先日、彼はご信者さんの前で「僕はあのとき御法さまに生かされたんだ」と言ってくれた。本当に涙が出ました。
どうか、私たちは、いま、生きています。それは生かされているということです。この貴重な命を無駄にすることなく、生きる、生きていく、生かしていくために、片時もその御恩を忘れず、お祖師さまとひとつになって、その大慈大悲の一分でもお返しできるように、人を生かす、人をも救う、佛立菩薩としてご信心、ご奉公させていただくことが大切と、お教えいただく御教歌でございます。
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