2010年5月1日土曜日

『お知らせとお叱り』

 真実の仏教だからこそ、生きておられる御仏、お祖師さま、普遍にして不変の御法さまだからこそ、この信仰を始めた直後から様々なサインが現れてくる。

 見るもの、聞くもの、出会う人、電話やメールが来るタイミング。目の前で起こるすべての出来事は、偶然ではなく必然であると気づく。最近世間にはそう「思い込ませる」手法が溢れてきたが、真実の仏教では、事実この宇宙が御法を中心とした法則に則って動いていると「知る」「気づく」ことができる。

 有難いことだ。この「御法」にお出値いした者が手にする功徳や御力を思えば、打ち震えるほどに有難いと思う。ダメなものがダメではなくなる。最大の不幸も最高の幸せに変わる。この上行所伝の御題目をお唱えすることによって、その人は確実に「現証の御利益」をいただく。「願う所、虚しからず」「妙とは蘇生の義なり」等云々。

 しかし、私たちの信仰は狐狸の類に油揚げをあげて「現世利益」を求めるのとは訳が違う。決してこの点を勘違いしてはいけない。

 「現証の御利益」とは「現世利益」ではない。自分に都合のいいことを「現世利益」と言うなら「現証の御利益」はそれのみを指さない。

 生きている御法さまだからこそ、欲深い私たちにとって都合のいい「サイン」のみが御利益ではない。

 人間は、喉もと数十センチの欲のために身体全体の健康を害する。その愚かさを医師は教えてくれる。同じように、凡夫の願うところや考えと、人生の幸せとは相反することが多い。つまり、凡夫の願いを叶えてくださる御法は、同時にその愚かさも教えてくださるのだ。

 本当の「現証の御利益」とは、幸せの道から外れないように、時には励ましのご褒美をくださり、時に軌道修正を促してくださるものだ。

 生きた御法さまからのサイン。嬉しいサインもあれば、厳しくて受け入れがたいサインもある。

 「御罰」というとアレルギー反応を起こしてしまうだろうか。いや、それこそが間違いである。御利益は欲しい、しかし、御罰はコワイ、いらない。心情は理解できるが、それは間違い、勘違いである。

 「御利益速かなる故に、御罰も又必ず来る。御罰来らざれば御利益も有べからず」

 御利益と御罰は表裏一体なのだ。単に忌み嫌うのが御罰ではない。西欧の「神罰」と混同せず、真実の仏教が説く御慈悲に溢れた「御罰」の意味を知っていただきたい。

御教歌「罰といふ御折伏のなかりせば われらに信は起らざらまし」

御指南「御罰即御利益也。御罰の当らぬは真の御罰也」

 考えて欲しい。あなたは、この「御罰」「お知らせ」「お叱り」を、今、いただけているだろうか。

 実は、末法では御利益よりも、御罰やお叱りの有無が、御本意に叶い、御法さまに通じたご信心かどうかのバロメーターになる。

 「なんであんなにイヤな人なのに、幸せなのかしら」

 「真面目に信心してる私には苦労があって、信心してない人の方が幸せそうよ。なんで?」

 こんな風に思ったことはない?私だけかな(笑)。いや、七百年前のお祖師さま(日蓮聖人)も、開導聖人も、同じ設問を設けて、この疑問にお答えくださっている。

 開導聖人の御指南。
 「信者にて懈怠謗法して罰のあたらざるはいかん。答曰。手習子に習はせ置て、いまだ直しに及ばぬ間のごとし。されば家来にも弟子にも呵らるるは見処あるが如し」

 第一には、まだ指導するに至らない、準備段階という御意。第二の理由はその人の素質の問題。叱って伸びるか。言って分かるか。あるいは、言っても分からない相手か。

 末法有縁の大導師、お祖師さまは、さらに核心を諭されている。

 「一闡提の人になりぬれば、順次生に必ず無間地獄に堕つべき故に現罰なし」(開目抄)

 厳しすぎて二の句もない。御罰がバロメーターとなる最大の理由である。

 同じく開導聖人の御指南。
 「賞罰の目に見えぬ人あり。如何。順次生に堕獄の人、今生にとがめなし」

 世界は一見すると一昔前よりも豊かになり、人も賢くなったように思う。しかし、末法は恐ろしい悪業を背負った者の生まれる時代。嘘を重ねて周囲を苦しめ、自分も傷つき、改良せず、命を浪費する。それが、仏法に最も縁遠い末法の人々、「一闡提」という。彼らはその罪障の深さから臨終して間もなく恐ろしい境涯に堕ちることが決まっている。逃れようもない。だから、悪業を放置する人には、軌道修正の為の「サイン」もない。

 何も起こらない状態。何となく過ごせている。穏やかな日々かもしれない。普通はこれが一番いい。しかし、そこに落とし穴はないか。アリとキリギリスの寓話のように、今の幸せは不幸を先送りしているだけで、その先には大きな不幸が待っているとしたら落ち着いてはいられないはずだ。

 「御罰の当らぬは真の御罰也」

 何もないのは、一闡提の罪障や謗法の業からで、実は御法さまに見放されているのかもしれない。御利益は欲しい、御罰はいらない、ではなく、御法さまが「見所」があると見込み、軌道修正を促してくださる「お知らせ」や「お叱り」を喜ぶ。この「サイン」があれば恐ろしい境涯に陥ることはない。その逆は最も恐ろしいことになる。

 永遠の寿命を持つ御仏が、なぜ御入滅されたか。如来寿量品にはその理由が説かれている。

「常に我を見るを以ての故に而も 恣の心を生じ放逸にして五欲に著し悪道の中に堕ちなん」

 常に私がいると思えば堕落する。故に、恋慕渇仰の心を起こさせ、仏道精進をさせるため、「近しと雖も而も見ざらしむ」。そしてお姿を隠された。

 しかし、今の私たちは、御本尊を通じて「常に我を見る」果報をいただいている。信徒であれば家に御宝前があり、御本尊を拝見しようと思えば拝見することが出来る。残念ながら、そうして安心し、油断してしまうのだ。これが落とし穴になる。「放逸にして五欲に著し」てゆく。その時、生きてまします御仏はお隠れになる。見放されてしまう。御罰もいただけなくなる。

 「信徒の中にも治し難き病あり、病名を古法華と云」(名字得分抄)

 十代、二十代でも古法華になる。何十年、何代目といえば、なおさらだ。本音と建て前を使い分け、謙虚さを失って侮る。自屈、上慢、二乗心。ある時は敬い、ある時は尻に敷く。縁故と情実のみで判断し、動いてしまう。「古法華利益なし」と言うが、御利益が無くなるなくなるのはもちろんだが、それ以上に、改良のきっかけである「御罰」すら与えてくださらないことの恐ろしさを感じなければならない。

 末法悪世、苦しむ人が溢れている中、幸せだ、晴天だと喜んでいても、それは御法さまが呑気な奴らだと見放してしまったからかもしれない。そのセンス、その感性を失うな。それが信心。「お叱り」がいただけなくなれば終わり。改良の機会を見逃すな。

 「天の為せる災は逃るべし。自ら為せる禍は逃れ難し」

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