2007年12月2日日曜日

『本当の宝物』 高祖会の御法門

『信心の 起こるばかりの 御利益は 世にたとへなき たから也けり』
(妙深寺住職 高祖会第一座御法門)
 私たちにとって、最たる現証の御利益は、迷い多き我が身、我が心に、「ご信心をいただけた」ということ。その尊さ、ありがたさ、喜びを感じなさい。そして、だからこそこの御題目ご信心という万病に効く「お薬」を、今苦しみ悩む人に伝えなさい、手渡しなさいとお教えいただく御教歌です。
 ご信心をさせていただく。御宝前に向かい御題目をお唱えして必死にお願いをすると、必ず、現証の御利益をいただきます。ダメなものがダメではなくなる、真っ暗な中に光が見えてくる。「もう、ここはお看経しかない、おすがりするしかない」と思って、御題目をお唱えしたその瞬間から、必ず「サイン」…身の回りで不思議なことが起こってくる。何も起こらないことは断固としてない。それが妙不可思議の、私たちのご信心。御仏が、大慈大悲の全て、御力の全てを込めてくださった、尊い言葉「ナムミョウホウレンゲキョウ」こそ、万法具足のお薬ですから、服用すれば必ず変化、効果が出てきます。
 このお薬を私たちに届けるために、お祖師さまはご苦労くださいました。大難四ヶ度小難数を知らずのご奉公は、ただ一点、このお薬を世界中の人々の口の中に入れさせてもらって、その人が抱えている背負っているあらゆる苦しみや悩み、痛みを取り除こう、というご覚悟のご奉公です。
「信心のおこるばかりの御利益は 世にたとへなきたから也けり」
 御利益をいただいた人の、その瞬間の顔を思い浮かべていただきたい。それは本当に素晴らしいものです。悩みを抱え、誰にも相談できず、一人で苦しんできた。しかし、御宝前に座ってお看経し、泣きながら、おすがりしながら、ご祈願させていただく。そして、御題目というお薬の御力で、ダメなものがダメではなくなった。その、どうしようもなかったことが解決される瞬間に立ち会う。それは何ものにも代え難いありがたい体験です。
 「現証の御利益」の「現証」とは「御題目の尊さを現前に証明していただく」ということです。「やっぱり、お祖師さまの仰っていたことは本当だった」とそれは、自分で体験しなければ分かりません。「現証」とは「実体験・事実」のことです。御題目をお唱えして、確かに目の前に現れる。家庭内の問題、仕事上の切羽詰まった問題、心と身体の病気、ガンとか、深刻な怪我、世間でいう心霊現象や超常現象といわれる分野でも、本当にたくさんの現証の御利益を見せていただきました。
 しかし私は、この「現証の御利益」をいただいた人の、その瞬間の顔を見させていただく度に、その奥にある「本当の現証の御利益」を感じます。御利益をいただいた人の、その後の生き方、その人の心に生まれたものが何なのか。病気がよくなる、ダメだと思っていたことがダメじゃなくなるという出来事そのものも大変な御利益ですけれども、その出来事を通じて芽生えた「喜び」「笑顔」「感動」そして「ご信心」。「信の一字」さえ生まれれば、厳しい世の中にあっても、その人がブレずに、悩まず、迷わずに、本当の人生を歩める。「何てありがたいことだろう、また御法さまが御力を顕されたのだ」と感動するのです。
 もともと、私はアホな息子だったわけで、先住のお怪我がなければ間違いなく今ここにおりません。本堂の玄関先で先住が六メートル近くの崖から転落して、頭蓋骨骨折、頭蓋邸骨折、脳挫傷、脳内浮腫と、とんでもない状況になりまして、お医者さんも何もできませんと。そこで御題目をお唱えするしかなくなって、「現証」を見せていただいて、あの危機的な状況から一〇〇%の回復をされた。四十九日間、意識不明で間違いなく後遺症が残ると言われていたのに、回復して、歩く、走る、喋る、車も運転する、ご奉公も完全復帰された。あのとき「御題目のお力はこんなに凄いんだ」ということを分からせていただいた。「信心」を芽生えさせていただいた。どうしようもなかった人間が、今、こうして苦しんでいる人のためになんとか力にならせていただきたいと思える人生を選べたということ、それが何物にも代え難い「現証の御利益」でした。
 「佛立の現証」とは、単なる「奇跡」ではありません。お金を借りるんだって、サラ金、ヤミ金、銀行までいろいろあります。へたなところから借りたら後で大変な目に遭う。変な占いや超能力者に命を助けられたり、お金がもうかった、仕事が上手くいったと喜んでも、そこが「不幸のはじまり」になるでしょう。そうであるなら、それは「薬」などではなく「猛毒」「麻薬」です。
 佛立の「現証」というのは、最大の不幸を最高の幸せに転じます。そこをきっかけにして「幸せの始まり」。信心で御利益をいただいて、さらに信心が生まれるということです。
 妙深寺の兼子清顕師。大学の在学中に、ご信者さんの家庭から得度を決意してくれました。今ではスリランカにも一人でご奉公に行くほど一生懸命にご弘通に気張ってくれています。その清顕師が得度する前、隆二君だった頃にいただいた「現証の御利益」は、今でも鮮明に記憶に残っています。
 深夜〇時を過ぎた頃、受持の信仰師から連絡があり、兼子家の九十歳になるおじいちゃんが夕方から行方不明だというのです。探し回ったが近所にもいない、警察にも連絡した、神奈川県下の病院に運ばれていないかも確認した。もう六時間近くたち、寒くなってどこかで倒れていたら命が危ない。どうしたらいいかわからない。
 そこですぐに行って泣きながらみんなでお看経しました。何とぞ、お助けいただきたい。おじいさまは大変にご奉公された方です。もし万が一のことがあっても、これではおじいさまのご生涯と一致しない、お願いします、と。
 それで一座のお看経が終わり、外に出ますと、外を探していたお父さんが帰ってこられた。その時、隆二君が、フラフラ~っと歩き始めた。それで、私たちが話をしていると、遠くから「いた!」という声が聞こえまして、「え~!」と言って声のする方に走っていきますと、道から離れた田んぼの際に、おじいちゃんが倒れていた。こんなところに! と、もう感激で胸がいっぱいになった。
 何度も探した場所だったのに、しかもお看経の終わったあのタイミングで、隆二君に何でそっちに歩いて行ったんだと聞いても分からない、おじいちゃんに後で聞くと、なぜかあの時だけ隆二君の呼びかけに応えることができた、と。
 その時、隆二の頭を思いっきり叩きまして、「これが現証の御利益だ」と。あれ以来、隆二君は、おじいちゃんが教えてくれた「現証の御利益」で、ご信心をつかみ、得度して、いま一生懸命ご奉公してくれている。
 本当に私たちの頂く現証の御利益というのは、妙不可思議です。これは御題目のお力しかないということがたくさんあります。
 この前スリランカから来たご信者さんも言われていました。私たちの病気は、病院では本当には治りません。もちろん、一般的に考えると「病気」は抗生物質や手術や何かでおさまるかもしれません。しかし、あなたが今辛く、苦しんでいるのは、あなたの業や罪障、生活の積み重ねから出てきた一つの「サイン」(現れ)でしかない。だから、私たちが抱える苦しみの根本的な原因は、「ご信心を素直正直にさせていただく」ことでしか治らない。上行所伝の御題目のご信心をさせていただいたら治る。ブレない。回復に向かうということです。だから、根本的な「現証の御利益」は、病気治しじゃない。その問題解決の奥にある、そこからみんなの心に生まれる「信心」であると教えていただくんです。
 つくづく、このご信心をいただけて有難いと思いませんか。仏教は「癒し」じゃないんです。仏教は「安心」なんです。キリスト教的には、疲れて傷ついた者が、神の前で「癒やされる」と言います。仏教は「安心」です。心にご信心が起こる、ご信心をいただくということができれば、それは「安心」をいただいたということです。もう迷わない。挫けない。一喜一憂しない、ブレることがない。良いことがあっても、悪いことがあっても、若くとも老いていようとも、「安心」をいただいて、ブレずに生きていける。人生でこんなにありがたいことがありますか?
 人生には、様々な出来事があります。良いことも悪いことも起こる。ご信心をいただいても、人間としての業である「生・老・病・死」は訪れますし、愛する人との別れもあります。憎しみや妬みに出会うこともある。ましてや、我が身の罪障を思えば、都合の良いことばかりが起こるはずはありません。しかし、ご信心さえいただいていれば、そんな不安定で厳しい人生であっても、確かに生きていけるんです。もう迷わない、慌てない、嘆かない、ブレない。これが本物の佛立信心なんです。
 開導聖人の御指南をいただきますと、
「信心の起こるばかりの御利益は 世にたとへなきたから也けり また、信心の起こらぬばかりの不幸せはなき也。所願成就、みな此の信の一字より涌出するもの也。故に智慧をえらまず、信の起こるは如来、仏の金言を疑わず、信ぜらるる也。されば、疑いは諸々の罪障の根元也。柔和質直なる人ばかり尊く、めでたく、うるわしきはなき也云々」
かようにお示しでございます。
 もう、信心を起こすということが何ものにも代え難い。信心が起きないことほどの不幸はない。信心が所願成就の根本。疑いは罪障の根源。だから、素直正直にご信心する人ほど尊く、喜ばしく、美しい人はいない。「うるわしい」とは「精神的に豊かで気高く、人に感銘を与えるさま。心あたたまり、うつくしい」という意味です。本当にご信心されている人は素敵じゃないですか。
 さて、いかがでしょうか。本門佛立宗の現証の尊さ、すごさ、その奥にある根っこの「現証の御利益」、私たちの心に信心が起こる、信心が生まれる、ここに気付かせていただけるでしょうか。誰でも、人は弱いものです。孤独です。愚かです。だからこそ、ご信心がなかったら根っこの病気は治らない。 
 最近のお教化では、みんな「とにかくお寺にお連れしよう」って言ってくれているんです。そして、いろんなことで悩んでいる人のお話を親身になって聞いて、ご信心のお話をお伝えする。だけど、その方の抱えている問題が、家庭内のことであれ、人間関係であれ、病気であれ、話で解決することは何もないんです。お寺に来て考え方をちょっと変えて、その程度で解決したと思っても、それは自己満足でしかない。本当の仏教、本門佛立宗の教えは実践なんです。
 だから、最終的にはいつも「本堂へ行って御題目を唱えましょう」と言って、本堂に上がって、「ナムミョウホウレンゲキョウと唱えるんです。これを六ビートで唱えるんです。できれば膝を叩いて、隣の人とタイミングを合わせせ声を重ねてください」って言ってお看経をさせていただくと、ほとんどの方がこの御題目口唱で何かを感じてくださる。そして、「これから一週間お参りしてごらんなさい」とお話ししたり、忙しい方でも、三ヶ月間、週に一度お参詣するように勧める。そうしてみんなお計らいを頂いています。 
 ご信心をいただくということは、断固たる安心の境地の中で、今度は人のため、御仏のために生きていこうと命を輝かせることなんです。次々にサインが現れるということなんです。
 どうか、現証の御利益は、信心から生まれ、信心は現証の御利益によって育つということを忘れずに、そのためにもまず自分が実践して御題目を唱え、苦しみ悩む人のためにも、一心にお唱えさせていただくことが大切。例えようのない宝物がいただけるように、ご奉公させていただくことがありがたいと、感得させていただく御教歌でございます。

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