御教歌
「折伏もあたらぬ様にする時は
やはり無慈悲の随他意となる」
三毒強盛の凡夫を悪循環から抜け出させ、頑迷さから解き放つために「折伏」は欠かせない。
末法の菩薩行の基本。ならねばならぬ修行。しかし、この折伏にも随他意という無慈悲のやり方がある。慈悲があれば、上段に構えた折伏も、お茶を濁すような折伏も慈悲がない。
人は死ぬ。必ず死ぬ。どんなことをしても150年生きる人はいない。人は老いる。人は病む。そして人は死ぬ。 生ものだから死ねば腐る。だから埋めるか、土に返すか、燃やして灰にするか、動物に与えるか、する。世界には様々な葬送の仕方がある。 仏陀は火葬された。仏陀は分骨された。ガンジス川に...
3 件のコメント:
ありがとうございます。
いつもありがたく、拝見させて頂いております。
だいたいの内容について深く同意させて頂いておりますが、下記についてだけ理解が及びませんでした。
「慈悲があれば、上段に構えた折伏も、お茶を濁すような折伏も慈悲がない。」
慈悲があれば、どんなやり方でも折伏すべきとは思いませんが、慈悲がなければどのような折伏もすべきではないとも思えるのですが、上記文面はどのように受け止めさせて頂けば良いのか、愚問で大変申し訳ありませんが、お教え頂ければ幸いです。
ありがとうございます。
書き込み、ありがとうございます。朝の短い時間での投稿なので、分かりにくい点もあると思います。申し訳ありません。
御教歌のとおりで御座いますが、「あたらぬ」を具体例を挙げて解題してくださいました。
御法門を説かれた清顕師のご奉公の具体例を挙げて、苦しんでおられる方に対して「これこれをしなさい、できなければダメです」と出来そうもないことをこちらの信心で伝えてしまうことを慈悲のない「上段」に構えたものも、相手の心情ばかりを斟酌す過ぎて言うべきことを言えないままであるのも「随他意」の「折伏」とお教えいただきました。
随他意でいう「意」とは、御法の御意であり、「他人」の「意」でないことはもちろん、「自分」の「心」でもないのです。「随自意」の「自」とは御法さまです。
ですから、慈悲を先として、御法さまの御意に従ってご奉公させていただくことが大事なのだと教えていただきます。
具体例として挙げられた方は、最初は頑なにご信心を拒んでおりましたが、御本尊を奉安され、御利益をいただかれました。上段のままではお教化にもならず、相手の様子を見ているだけではご奉安にもならなかったという事例でした。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
お忙しいところ丁寧な解説ありがとうございます。
元々は慈悲のこころからのお折伏であっても、上段/茶濁なお折伏をしてしまうのでは、結局は本当の慈悲とはなり得ないということだと理解しました。
(もしかすると未だ理解が届いていないかもしれません。)
少しでも随自意に叶う御信心が出来るよう今後とも精進致します。
ありがとうございます。
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