サッカー・ワールドカップ、ブラジル大会。
日本から最も遠い国
ブラジルで熱戦が繰り広げられました。
残念ながら日本は早々に敗退してしました。しかし、日本人が競技場でゴミを拾う姿がニュースになり、世界中から称賛を受けました。
いろいろな意見があると思いますが、私は素晴らしい話だと思います。
美しい日本。
誇るべき日本人の徳性を表すニュースです。
こうした美徳を、忘れずに受け継いでゆきたいものです。
実は、これと全く同じニュースが、今から106年前、ブラジルの大地を初めて踏んだ日本人移民たちの記事にもあり、人びとを驚かせました。
この記事は、ワールドカップの会場で、日本人サポーターが絶賛されるよりも前に、京都佛立ミュージアムに展示していたのです-。
すごいっ。
水野龍さんもいて、茨木友次朗氏、僧名・現樹、後の日水上人も乗っておられた、ブラジルへの第1回日本人移民が、最初にブラジルの大地を踏みしめた、その時のニュース、新聞記事に、日本人を称える、素晴らしい記事があります。
『ジャポネス・ガランチード』
第一回移民が到着した日の記事。1908年6月25日付『コレイオ・パウリスターノ』紙の新聞記事です。
そう、ブラジルへの第1回日本人移民を乗せた笠戸丸は、1908年4月28日に神戸から出港し、6月18日にブラジルのサントス港に接岸したのです。
取材に当たったのはソブラードという名前の記者。浮世絵にあるような髪型の日本人を想像していたようですが、出てきた日本人移民たちは見事な洋装で驚いたと書いてあります。
「彼ら(移民)は男女ともすべて洋装であった」
「男たちは中折れ、また鳥打ちをかぶり、女たちは下着ーカミゼッターにスカートのつながった着物をきて、腰のまわりはベルトでしめ、ごく簡単な婦人帽をゴムひもで頭にかけ、ピンのかざりをつけていた。そのかみかたちは、かつて日本画でみたものを思いださせるが、あの絵にあったような大きなカンザシーグランポス・コロサーイスーはつけていなかった。」
「男女とも安価な靴(深ゴム・編上げ・短靴)をはいていて、底には鉄のビョウが打ってあった。そして、すべてのものが靴下をはいている」
「多くのものが絹の小旗をもっていた。一つは白地の中央に赤い丸があり、他のものは黄緑で、日本とブラジルの国旗であった。これはわざわざ、われわれをよろこばせるためにもってきたものであった。なんと上品な心づかい!尊い教育のたまものであろう。」
106年前とは思えない、移民の方々についての詳細な描写です。
「移民は18日午後上陸し、同日サンパウロに到着したが、彼らを輸送した笠戸丸の船室およびその他諸般の設備を見ると、みなよく清潔を保っていた。
それだから、日本船の三等船室は、太平洋を往復する欧州航路の一等船室よりも清潔だと評する者さえ、サントスで見受けられた」
「移民は移民収容所に入るにあたり、秩序整然として列車から降り、少しも混雑の模様なく、またその車中を検査したら、ツバを吐いてある跡は一つもなく、果物の残りクズなどの散乱したものも皆無。観察者をして不快感を起こさせるようなことは、一つもなかった」
「移民たちは食堂で交替して食事を終え、約1時間後に各自に定められた寝室を見るために食堂を出たが、驚くことには、彼らの去った後にはタバコの吸いがらもツバを吐いた跡もなかった。もしも、これが他国の移民ならば、その居所はタバコの吸いがらやツバでもって不潔化することだっただろう」
「税関吏の語るところによると、このような多数の移民が秩序よく、その手荷物の検査を受け、一人として隠す者がなかったことは、いまだかつて見なかったところである。
これら日本移民の清潔なことは既に述べた通りであるが、移民でこのように清潔で規律正しい者は未曾有のことである。さらに従順なことは羊群のごとく、やがてサンパウロ州の富源は、彼らによって遺憾なく開発され、将来サンパウロ州の産業は日本人に負うところ大であろう」
「彼らは熱心にわが国の言葉を学ぼうとしており、また食堂では一粒の飯粒、一滴の汁をも床の上に落としたものも認めることができないほど用意周到で、食堂の床は食後でも清潔を保ち、食前と少しも変わらない。それに紙切れやマッチのカラが散乱していたとすれば、それは移民収容所の給仕人たちの所為であって、日本移民がしたのではない。実に彼らは好ましき人種だといえよう」
ソブラード記者。何度も何度も同じようなことを書いています。よほど他の民族と違っていたのでしょうか。
いずれにしても、日本人がどれだけ清潔で、上品、律儀で、秩序正しい民族であるか、第1回日本人移民がブラジルの大地を踏みしめた瞬間から明らかになっていたなんて、これこそ誇らしいこと、素晴らしいことだと思います。
それを、今でも忘れずに出来ているなんて、すてきです。
「人にされてイヤなことはしない!」
「因果応報」
おじいちゃん、おばあちゃん、お父さんやお母さんから、自然と受け継いでいるのでしょうか。
これこそ、忘れたくない。
この106年前のニュース記事と同じように、もう1つブラジルに関した大切なこと、ブラジル展で展示していることがあります。
それが、昭和45年(1970)12月8日付、茨木日水上人がお弟子の及川日在師に送ったお手紙です。
このワールドカップ開催期間中に、日本は閣議決定で憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使容認に舵を切ったと報道されています。
同じくブラジルに仏教を伝えた茨木日水上人が、戦争と平和について書かれているお手紙です。
「平和国家で押切る事が真の武士道」というキーワード。
昭和45年(1970)12月8日とは、三島由紀夫氏が自決してから約2週間後のことです。
三島由紀夫氏に強く影響を受けたと言われている政治家の方々、石原慎太郎氏もそのお一人ですが、そういう方々に、ブラジルで、第一次世界大戦、敵性国民として第二次世界大戦を過ごし、日本人同士の殺害事件にまで発展した勝ち組と負け組の問題を目の当たりにしてきた、茨木日水上人の見解を知っていただきたいです。
日本の誇るべき徳性を、ブラジルに、世界に伝えた、第1回日本人移民の一人、ブラジルに仏教を伝えた、茨木日水上人の見解を。
『平和国家で押切る事が真の武士道』
拝啓十二月三日手取の御手紙御請取いたしました。此度は松尾氏行きで小使を多分に使はす事になりました。誠にありがとう存じます。帰途は便が悪くて吉田局長迠足を延ばしました。今年は気狂天候で総てが当に成らない、喜んだり悲観したりが農家の現状です。人間の気持を顕はすのでしょう。
此度は三島由紀夫文学者の自刃で世界中のショックでした。珍らしい出来事でしたが拙者の考へます武士道ですが、義を見てせざれば勇なきなりと云ふ言葉があります通りベトナム戦争に国民の飢え衣食住に困難する姿を見て再び戦争はいたす物でないと思ひます。幸ひ日本は平和国家を法律に定められてある事が如何に幸福の事かと思ひます。自衛隊といふのは守備隊の事で城を守るといふ役割です。国の番人です。平和国家を守護して居るのが武士道であります。日本を範として各国が守備隊を置く定度の軍費であれば世界中が経満国になります。此の平和国家で押切る事が武士道です。諍ひ戦ふことが武士道でありません。
斯した高度の思想の文明は佛陀を信じる事にあります。外道の思想には大きい欠点のある事を覚悟せねばならぬのです。三島氏は国士で犠牲精神に富んだ立派な方でありますが時代謬誤の賢者です。言行一致は誰も望む所ですが本未有善の衆生は天台伝教聖徳太子八幡大菩薩の様な観行即には行きません。且つ此の娑婆世界は同居土で賢愚雑居の所ですから、無理な思惑を押付けても全々効果はありません。悲しい事ですが世の犠牲者と見る外ありません。如何に立派な人でありましても、人間凡夫の自力の考へ方では的に当りません。此の世界に高い思想家といふのは釈迦牟尼仏です。三島さんに佛縁の無かった事が致す処と思ひます。
三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なりと高祖聖人は教えられて居ります。法華経の信仰の世界は故に不幸の起る天災の如きは神仏御守護が無いからであると我々は解釈する外ありません。王舎城の名で町が火災を逃れた事など故事を引証しますと過去世の業因もありましょう。我々は南無妙法蓮華経と唱へて一生を御奉公で最後迠それで終る事が出来れば人生としての大果報人と信じて毎日を重ねて居ります。先は御礼旁々御返事迠
大宣寺 茨木日水拝
及川日在師
昭和四十五年一二月八日
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