2014年12月31日水曜日

年が明けます

23時30分から、除夜法要、越年迎春の一座を奉修させていただきます。

毎年、ずっと変わらない。

この柔らかい明かりの中、祈りながら年を越すこと。

感謝を言葉に、願いを祈りに。

円蔵が、僕のベッドでテッドと遊んでいた大晦日。

御導師、有難いです。

先ほど、旭くんが面会ということで本堂で彼に会いました。

丁寧に折った「御礼」のお包み。

今年、彼は精神科の先生から「もう終診にしましょう」と言っていただき、長い闇の中から抜け出し、就職もしたのでした。

そのお給料からご宝前への御礼をお包みして、大晦日にご挨拶くださったのですね。

重たいです(涙)。

有難いです(涙)。

苦しみを人ののがれしよろこびを 聞くばかりなる楽しみはなし。

今年が、どれだけ有難い年であったか、旭くんと交わした強い握手で、あらためて痛感しました。

みんな、苦しみや悲しみに直面し、辛さを抱えながら、それでも御法さまに助けていただいて、今まで以上の幸せを手にしています。

病は成仏の仲人。

まさに、不幸を、幸せへ変えるのが、生きた仏教、本物のご信心ということ。

明日は11時から元旦初総講を奉修させていただきます。

お年玉があるからねー、子どもたちを待ってますよ

京都佛立ミュージアムは、本山に初詣されるご信者さまのために、スタッフのみんなが甘酒を用意して開館してくれています。

元旦からのご奉公、本当に有難い(涙)。

朝の9時から夕方15時まで京都佛立ミュージアムは開館していますから、本山にお参詣された方々は是非お立ち寄りください。

いよいよ、年が明けます。

教化誓願の成就

12月31日、大晦日。

今日は大切な日。

藤本御導師の祥月ご命日でもあります。

5年前の今日、藤本御導師がご遷化されたことを、生涯忘れずに、ご奉公の巨大な指針とさせていただかなければならないと思っています。

そうしてゆかなければ、佛立の如何なる御法門も、成立しなくなります。

万物に流れる普遍の真理、法則。

法の存在を忘れ、謗るのは人間。

偏らせて見せるのも人間の都合。

現象を現証と見て取る人だけが真実の御弟子、佛立信徒。

そうでなければ、普遍の真理と法を、知らぬ人、謗る人。

これからも、今日の日の意味を忘れずに、ご奉公させていただかなければ申し訳ないと思います。

大晦日の今日、20才の青年が妙深寺に入寺しました。

陸上の短距離選手として、全国大会やインターハイにも出場したアスリート。

しかし、生きることの意味、学ぶことの意味について悩み、大学を中退し、社会に出て働いていました。

木更津妙蓮寺の竹村ご住職からお折伏をいただいて百本祈願をさせていただき、佛立教務として生きる道を選んだのでした。

まず、彼を3ヶ月間お預かりし、4月からは次の修行場所を探してゆくとのこと。

二段ベッドで悠時くんと同室になります。一騎当千の教務になれるように、お互いに磨き合ってもらいたい。

永遠の命とはいえ、今回はあっという間の出来事。

毎日が一生だと思って、大切に積み重ねてゆけば、何年か経ったら、全く違う景色の中にいられるはずだ。

絶対に、負けてはダメだ。

アスリートならば知っているはず。

最大の敵、最強のライバルは自分自身。

嫉妬されても「お前とは骨の折ようがチト違うんじゃ」と言うのが開導聖人流。

やるしかない。

とにもかくにも、頑張ってもらいたい。

そして、本年こそ、最高だったと思える感動は、妙深寺の教化誓願89のところ、91のお教化を成就させていただいて、誓願成就の御礼を言上させていただけたこと。

毎年、なかなか成就できずにいましたから、格別の有難さ、喜びです。

しかも、今年から教区独自の誓願として例年の誓願数から増えていたのです。

今年の前半は例年と変わらないペースでしたが、後半から、圧倒的な勢いでお教化を成就される方が増えてゆきました。

菩薩心、御利益ラッシュ、いろいろな場面でご信心の盛り上がりを感じていましたが、こうして誓願の成就という結果をいただきましたことは、来年へのさらなる糧、エネルギーとなります。

特別な行事や大法要ではないタイミングでの、ジワジワと積み重ねられたお教化だからこそ、有難さが倍増しています。

本当に、本当に、みなさま、ありがとうございました。

来年、さらに、胸を張って、自信をもってお教化のご奉公に臨めるような、妙深寺であるように精進し、努めて参ります。

藤本御導師に、少しは誉めていただけそうです。

本当に、教化誓願の成就、うれしいです(涙)。

ありがとうございます。

さて、あと数時間しかない!!!

2014年12月30日火曜日

現証の御利益

今年も残すところ今日と明日。

積もりに積もったやらなきゃいけないこと。

一年を振り返ってみて、何とかご奉公できたことが不思議なくらい。

いや、結局は次から次へと続く中で、最優先のご奉公を選ぶしかなくなり、待っていただけること、お願いできる相手ならば頭を下げ、先方の好意に甘えたり、許していただいたりして、何とかしてきただけのように思います。

キャンセルはしないまでも、出来ないまま年を越しそうな案件があるのだから、申し訳が立ちませぬ。

そして、自分のことは最後の最後。

よって、書斎のデスクも、本だらけ、書類だらけになってます。

少しでも発掘すると、自己嫌悪に陥りそうな書類。

あぁ、まだ、原稿を書いてなかった。

まだ、お返事してない。

まだ、やってなかった。

そんなことになり、数ミリ発掘しては作業中断。

いやいや、「捨ててこそ、浮かぶ瀬もあり、法(のり)の海」なのだから、思い切りましょう。

そう言い聞かせては、新たな電話、次のメール、LINEのメッセージ。

何もかも、大切なご奉公。

欠かせないご奉公。

お折伏させていただける有難さ。

12月の妙深寺は、だからこそ現証の御利益ラッシュでした。

全国のニュースで報じられた難病の赤ちゃんも、お懺悔からコツコツと積み重ねられたお助行で一大御利益をいただかれました。

最も難しい部位にあるとされた危険な脳動脈瘤手術も、連日のご祈願、お懺悔、ご家族一同の改良、教区の方々のお助行によって、大成功。

手術中、私もお助行させていただいていましたが、御講のため途中で下がるしかないかと思っていたら、「手術手術、成功」のメモ。

感動でした。

しかも、年末の納会に、ご本人が元気に参加!

ありえなーい。

ありがたーい。

藤村さんも、一大、一大、御利益を見せてくださいました。

12月中旬、妙深寺の青年会の会長をされたこともある藤村さんが、胃がんで引っかかったとのこと。

実は4月の会社の健康診断で、胃に影があり、要検査、すぐに病院に行きなさいと診断されていたとのこと。

12月になって、身体の調子が悪いと思って病院に行くと「それどころじゃない。紹介状を書くから大きな病院に行きなさい」と言われ、済生会病院に行って検査を受けると診断書にステージ「4」と書かれ、覚悟をして精密検査に進みました。

妙深寺にとって、いつもいて当たり前の藤村さん。

12月26日に検査結果。連日のご祈願、お助行。23日の教幹納会もお供水を持って参加してくださっていました。

そして、26日。

大奥さまも瓜生さんも付き添ってくれていたのですが、見事にガン細胞はみつからず、胃潰瘍のみとの診断。

みんなで飛び上がって喜びました。

御利益ラッシュ。

厳しいお折伏も、現証の御利益をいただくためです。

懺悔せば、滅せぬ罪やあるべき。来らぬ幸いやあるべき。

無始已来と唱えながら、懺悔のない慢心こそ大悪因縁です。

悪象を怖れるよりも悪知識を怖れよとは仏説です。

若し悪友にあえば即ち本心を失う。

大切なことは、お折伏をいただける師、同士がいるか、いないか。

大切なご奉公は日々夜々、連日連夜あります。

探せばいくらでもあるし、気がつけば行かなければならない、お宅、病院も、施設も、たくさんあります。

まだまだ、足りないですね。

年末は、自分のやり方を見つめ直す機会になりますね。

2014年12月29日月曜日

中島キミさん

今日は大鏡餅つきの日ですが、珍しく横浜は冷たい雨が降っています。

みんなで50臼くらいつきます。

雨だと大変。

工夫しながら、頑張りましょう。

本当に、年末です。

お仕事納めをなさった方も多いと思います。

一年を、お寺にお参りして、しっかりと締めくくること、しっかりと始めることは、絶対に欠かしてはならないこと。

本当の、本当に、そう確信します。

初詣も大切ですが、ひっそりとした空気の中で、年の瀬に、一年の御礼をさせていただこうとお参りに行くことこそ大切。

人生の、節目の、過ごし方。

何事にも通じるものです。

昨日は妙深寺の大掃除の日でした。

たくさんの方々がご奉公くださっていましたが、ふと本堂の廊下ですれ違った中島キミさん。

大正14年7月17日生まれの89才。

いつも、いつも、いつも、笑顔で、楽しく、コツコツと、ご奉公くださってきた中島さん。

長年一緒にご奉公してきた久子さんが亡くなったり、寂しい思いをしているとおもうのですが、変わることなく、コツコツとご奉公くださっています。

本当に、讃えたい。

89才の中島さんが、長いはたきを持って、お塵払いをしてくれていて。

感謝、感動です。

中島さんをはじめ、本堂でも、第二本堂でも、境内でも、たくさんの方々がご奉公くださっており、本当に有難く思います。

いつまでも、お元気で、変わらずご奉公いただきたいと願います。

キミさんの姿。

絶対に胸に刻んでおこうと、パチリと写真を撮らせていただきました。

ありがとうございます。

2014年12月28日日曜日

平成26年 立正寺 高祖会 御法門 長松清潤

2014年12月27日土曜日

ヨーコさんへのお手紙

今日、吉江代表にお声をかけていただいて、たくさんの素晴らしい出会いをさせていただきました。

ヨーコさんへのお願いのお手紙や資料もお渡しすることが出来て、本当に有難かったです。

来年に向かって、さらに精進します。

2014年12月26日金曜日

『生まれ変わり、死に変わり』

この宇宙には、万物に相通じる普遍の法則があります。

 

それは、特別この地球に限ったことでもなく、生物に限ったことでもなく、動物に限ったことでもなく、人間に限ったことでもなく、民族や言語、宗教や思想すら関係なく、事実、現実、そうである、そうなる法則です。それを知っているか、知らないか、信じているか、信じていないかにも、全く関係ありません。ずっと、この宇宙に流れている法則です。

 

ある人はそれを垣間見て思想とし、ある人はその一端を覗き見て文字にしました。

 

「私たちは、どこから来て、どこに行くのか」

 

「私たちは何のために生きているのか」

 

人類は古代から生死の境にある根源的な疑問に挑戦し、その先にある世界を夢想し、垣間見、覗き見、伝承してきました。

 

果たして仏陀はこの人類の根源的な疑問に挑戦し、宇宙に流れる、流れ続ける、万物に共通する普遍の法則と真理を覚知し、近づき、一体となりました。それを私たちは「覚り」と呼びます。

 

そして、仏陀はその法則と真理に基づいて、そこから遠く離れたまま生を終える人々を導くために、具体的なメソッドを示されました。

 

この根源的な、人類の、人生の疑問に答えるのが、仏教であり、私たちの信仰です。これこそが、人生の、信心の、修行の、仕事の、人間関係の、愛の、根源的なモチベーションになるものです。このことを外して、仏教はなく、信仰はありません。

 

あなたは、輪廻と転生を知っていますか。

 

あなたは死を迎えた時、何処にゆくのでしょうか。

 

何より、一体あなたはどこから来たのでしょうか。

 

輪廻転生とは、どこかの高僧の特別な生まれ変わりを指すのではなく、僕にも、あなたにも、彼にも、彼らにも、当たり前のように当てはまる普遍の法則です。

 

いま、輪廻、そして転生ということを、あらためて広く世の人々に感じていただきたい。遠くの、特別な、誰かの、何かの話ではありません。自分の、家族の、愛する人との、憎むべき人々との、ここにある、目の前に現れる、事実なのです。

 

静かに見れば分かります。耳を澄ませば聞こえます。生命は続く。生命は永遠に続いてゆきます。

 

だから、厳しいのです。

 

だから、尊いのです。

 

だから、怖いのです。

 

だから有難いのです。

 

時に勝手な解釈から悪用や差別を生み出した輪廻転生の思想です。法華経本門の御法門、真実の仏教からでなければ見えません。

 

三島由紀夫が遺作『豊饒の海』で描いたのは、時を超えて主人公の前に現れては消える親友との、夢と転生の物語です。

 

ニーチェも「永劫回帰」として普遍の法則に挑みました。しかし、彼の思想も三島の小説も、断定的で断片的なものと言わざるを得ません。それでは、ある人にとっては希望となり、ある人にとっては希望を奪うものとなります。そうではないのです。

 

生命は続く。


行為は蓄積される。


カルマ、業というエネルギー不滅の法則。


重なり合う命。


交差する縁。


繰り返されてゆく幸福と過ち。

 

この世に何十億の人が生きていても、本当に関係のある人はほんのわずかです。生まれ変わり、死に変わりして、ずっと続いています。またしても、あなたと巡り会いました。時には愛し合い、時には傷つけ合って、信じたり、憎んだりもしながら、ずっと続けてきたのです。

 

その人が、いま目の前にいます。そうして繰り返してきた命たちが、ここに集まってきています。

 

ここで起こっている出来事は、これが最初ではないということ。


過去から続いているということ。


未来にも続いていくということ。


だから、今が大切ということ。

 

時代が変わっても、場所や姿が変わっても、引かれ合い、何度も何度も、愛し合っては別れ、争いと過ちを繰り返してきました。親子、夫婦、兄弟、恋人、友人、時には敵同士になりながら、その生命がひとつになれる時を待っているのだと思います。

 

その関係は切れることがないのです。


ですから、この事実、現実に気づいた人から、自分を含めたその深い関係を、よりよいものへと昇華させていくしかありません。


せつないけれど、それが大切です。


面倒かもしれないけれど、もはや向き合うしかないのです。

 

生まれてから付いた癖もあれば過去世からの癖もあります。

 

お祖師さまが

「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」

と繰り返しお諭しくださっているのは、過去世からの心の「癖」に縛られていると謗法や罪障という根源的な悪循環から抜け出せないという強いお戒めなのです。

 

輪廻転生。


サンサーラ。


何一つ特別な教えではなく、佛立信心の基盤にある普遍の法則です。

 

私たちは、生まれ変わり、死に変わり、ずっと続いてきて、これからもずっと続いてゆくのです。

 

「無始已来 謗法 罪障消滅、今身より仏身に至るまで持奉る。」

 

=始まりも分からないほど昔から、私は、生まれては死に、生まれては死に、魂の旅を続けてきました。

 

この間、久遠の真理に逆らい、多くの命を傷つけてきた悪い業は量り知れません。

 

いま、人間として命を与えられ、ようやくこのことに気づいた以上、この身が仏の身と成るまで、この上行所伝の御題目、普遍の真理を護持いたします=

 

これが私たちの信仰です。信仰の原点です。私たちは、毎朝毎夕、命の行方を探して、感じて、手を合わせているのです。

 

自分の命の行方について知らなければ大きなチャンスを逃すことにもなり、大きな失敗を犯すことになります。

 

ありとあらゆる人々は、誰一人逃れることなく必ず死を迎えます。自分の死を現実として捉えている人も稀です。ましてや、現在の日本人に「輪廻転生」と言っても信じられない人の方が多いでしょう。しかし、この法則を知らずに生きること、死ぬことは、最も不幸なことだと思います。

 

答えは、ここにあります。

 

「いきかはり

 死にかはりつゝ法華経に

  仕へん人を菩薩とぞいふ」

“ クラウド アトラス六重奏 ”


なぜ人は同じ過ちを犯すのか。

何度も何度も。

僕たちの人生上の選択と出会いが、次の流れを方向づける。

“ クラウド アトラス六重奏 ”

人と人が時代や場所を超えて何度も出会うことを想像して書いた曲。

人は人生の中で自分の過去に出会う。

恐怖。

信。

愛。

人生を決定づける 様々な出来事。

それは僕たちが生まれる前に始まっていてー

死んだ後も続くのだ。

私たちの人生はつながり合っている。

他の人びとと、過去や、現在にも。

一つの罪が

一つの親切が

新たな未来を生む

愛する人と二度と会えないかもしれない

未来

現在

過去

希望

勇気

全ては、つながっている。

2014年12月25日木曜日

ようやく

ようやく、体調が戻りつつあります。

ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。

咳や熱も、何とかなると思っていたのですが、2週間以上もフラフラしていたのは初めてのことだと思います。

風邪をこじらせるというのは、こういうことを言うのですね。

勉強になりました。

23日、今年最後のお総講に引き続いて、年末恒例の教幹納会でした。

ステージに上で新旧のお役中さんをご紹介し、満場の拍手。

ありがたいです。

今日、京都佛立ミュージアムでは今年最後の「ほんもんさんアート市」。

寒さ厳しい中ですが、たくさんご奉公いただいておりますので、お近くの方は是非お立ち寄りください。

ガタガタ震えながら、今朝は3時まで寺報の原稿を書いていました。

何とか書き終えることが出来ました。

あまり記憶がないけど(汗)。

妙深寺も、これからが本格的な年末のご奉公です

みなさまも、体調には気をつけてくださいませー。

2014年12月22日月曜日

天高く

本当に、今回は参りました。まだフラフラしています。

大切な、横浜佛立寺、加藤ご住職の告別式に参列させていただきました。

あまりに早すぎるお別れです。

いつも、なにかあると、いてくださる、教えてくださる、駆けつけてくださる、神奈川布教区に、なくてはならない、幼い頃から、いつもいてくださって当たり前のように感じていた、そんなお方でした。

出棺の直後、佛立寺の上にだけ、ほんのかすかな、それでもくっきりと美しい、一つの雲がありました。

御導師を乗せた車列が遠ざかるとともに、その雲は天高く昇ってゆくようでした。

本当に、ありがとうございました。

2014年12月19日金曜日

たくさんの心の傷

救急車のサイレンを聞くと、手を合わせる。

今日、わずかな間に何台もの救急車とすれ違いました。

今年もいよいよ年の瀬が迫っています。

僕も風邪をこじらせて、今夜の事務局会議も38.3度でご挨拶。

不覚にも、ご挨拶しながら、涙が出ました。

女々しい。

まぁ、仕方ない。

昔、決めた。

リーダーは泣くべきではないと言います。

そのとおり、ここ一番、責任を果たすべき時に泣くなんてもっての外。

しかし、教務は泣くべきだ。

もっと、もっと、もっと、もっと、泣くべき。

それだけ。

エルサレムの、ゲッセマネの園の近くにある教会に行った時に、ともかく、宗教者として負けるわけにはいかない佛立教務がボロ負けしていると感じて、それからそう思うようになりました。

とにかく、泣いた。

まだ熱が高いから、文章おかしいかな?

途中で失礼しましたが、22時過ぎまで会議をしてくださっていたとのこと。

13日の発表会以来、もはやダントツの随喜と、まっさらに明るい異体同心で、今の妙深寺のご奉公が進められているのを感じます。

そう、実感することが出来ました。

最高でした。

そもそも12月13日はお歳暮のご挨拶でした。

12月は、大変です。

たくさん、たくさん、あります。

時代に変化、妙深寺の世代交代の現実もあり、もう10年以上前、お歳暮のご挨拶を止めました。

それに代わって始めたのは、本堂のお控えの間で教区ごとに、半年間、1年間のご弘通ご奉公の報告をしていただくことでした。

ずっと、このご奉公の形で、させていただいてきました。

今年はすごかったー。

今年は、ついに小さなお控えの間を出て、本堂でみんなと一緒に1年間のご奉公を発表し合うことにしたのです。

スクリーンを使って、各教区ごとのプレゼンテーション。

それが、最高でした。

とにかく。

本当に、ありがとうございました。

年末です。

たくさん、たーくさんの、方々の、現証の御利益を、ここ最近、たて続けに、この方も、彼の方も、とお聞きして、ありがたいこと極まりない。

考えられないほどの御利益。

お懺悔と、改良と、御利益。

セットになっているから、お手本です。

御法さまに、感謝です。

年末のたて続けのお教化、本当に、教区御講でご披露を聞いていて、涙が出ます。

年度末、これほどまでにお教化が続いたのは今までで一番だと思います。

純粋な思い。

打算なし。

うれしい。

ありがとうー。

ご病気の方、お仕事や家庭でトラブルのあった方、いろいろなことで苦しんでおられたり、悩んでおられた方。

年末に来て、そうした皆さんが、大変な御利益をいただかれて、新年を迎えられようとしていることが、住職として、どれだけ迷っていても、苦しんでいても、救いです。

それが、佛立だから。

救急車のサイレン。

僕には、これもきっと御利益なのだと思います。

この音を聞くと、ドキドキするから、必ず御題目をお唱えします。

この、表現しようのないドキドキは、心に残っている深い傷が原因だと思います。

耳の穴から血が吹き出している父を見て、妙深寺の本堂に駆け上がった日。

ピーポー、ピーポー。

がむしゃらに、無我夢中で、本当に駆け上がりました。

そして、遠くから近づいてきた。

ピーポー、ピーポー、ピッ。

停まった。

停まった。

停まった。

救急車が来たからといって、僕が動くわけにはいかなくて、一歩でも動いたら、死んでしまうと思ったから。

きっと、お母さんが、姉さんが、瓜生さんも、いてくれる。

俺は、ご宝前で。

でも、ピーポー、ピーポー、ピッ。

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

泣きながら、涙を左右に飛ばして、必死で御題目を唱えていても、「いま死んだんじゃないか」「もうダメだ」「もう息していないかも」と、救急隊との最悪のやりとりを想像して、泣けて、泣けて。

震えながら、泣きながら、この救急車のサイレンの音を聞きながら、本堂でご祈願していました。

で、もう一度、ピッピーポー、ピーポー、と鳴り始めて、先住がどこかの病院に連れていたれたのだろうと思います。

この間、僕はご宝前で祈り続けていたから、何も分らなくて、自分の信心の無さが、迷いに迷って、変な想像ばかりしていたから。

毎回毎回そうですが、救われたと思いました。

結果、49日後には、救われたのですが。

救急隊。

だから、なおさら、救急車に、敏感になります。

いま乗っておられる人やご家族のお気持ち。

あの瞬間、あの時間のことを思い返すと、今でも涙が出てくるから。

きっと、僕には心に深い傷があるんですね。

あんな光景は、めったにない。

戦場みたいでした。

愛する父親が血だらけになる瞬間。

交通事故など、壮絶な経験をされた方には及ばないけれど、それでも残ります。

目の前で起きたこと、父の姿、血が耳から吹き出し、坂の下に向かって流れていったスローモーションのような映像、取り乱してお看経する自分、そして、救急車のサイレンの音。

たくさんの心の傷。

他にもいろいろありますが、まず、救急車のサイレンで反応します。

しかし、心に傷のない人なんていないですよね。

誰だって、大きいか小さいか、深いか浅いかの違いこそあれ、それぞれいろいろな傷を心に抱えて生きているのだと思います。

それでも、いい。

そう思うのです。

それでも、仕方ない。

ついてしまったのだ。

人生は自分のものだし、どんな傷を負っても生きられる。

筋肉は、傷ついて、修復しようとしながら、太く、強くなってゆきます。

筋肉と同じではないけれど、全く傷を負わない生き方なんてない。

そんなの、人生ではないと思います。

だとしたら、その傷の治し方、場所、そのあとの、受け止め方が大切なのだと思います。

そこにフォーカスできたら、強くなり、優しくなり、大きくなり、いい意味で賢くなる。

そんな自分の心と共にあれば、きっとすてきだ。

傷痕を、いじり続けたり、放置しておくだけでは、膿み出したり、傷跡が汚くなったりします。

そうではなく、自分の心を傷を知って、いい意味で、バランスよく傷をつけながら、より強い、人の痛みの分かる、より志のある、生きる価値を知っている人になってもらいたいと思います。

ご信心があるから、どのような心の傷も、御法さまの御意にかなったご奉公成就、菩薩行の糧となり得ると信じます。

もちろん、幼少時の虐待やいじめや暴行事件など、拭いがたい、許しがたい、外科治療以外に深く裂かれた心の傷を治す方法がないとしても、やはり、生き直すしかなく、そこに惜しみなく力を尽くしたいと思います。

たくさんの心の傷は、悪く捉えたら悪くしかならないけれど、そうではない道もあると思います。

今年もいよいよ大詰めですー

いよいよ「今年最後」のご奉公が続き、「よいお年を」というご挨拶をさせていただくようになりました。 今年最後の教区御講を終えた日曜日の夕方、横浜ランドマークタワーのスタジオで白井貴子さんをゲストにお迎えしてラジオの収録を行いました。ずっと聴いていたいほど大切なお話が盛りだくさん。 ...