おついたち、おめでとうございます。
美しい岐阜の朝。
「釈尊はクシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後の教えを説かれた。
弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。
この法を灯火とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。
わが身を見ては、その汚れを思って貪らず、苦しみも、楽しみも、ともに苦しみの因(もと)であると思ってふけらず、わが心を観ては、その中に我はないと思い、それらに迷ってはならない。
そうすれば、すべての苦しみを断つことができる。
わたしがこの世を去った後も、このように教えを守るならば、これこそわたしのまことの弟子である。
弟子たちよ、これまでおまえたちのために説いたわたしの教えは、常に聞き、常に修めて捨ててはならない。
もし教えのとおりに行うなら常に幸いに満たされるであろう。
教えのかなめは心を修めることにある。
だから、欲をおさえておのれに克つことに努めなければならない。
身を正し、心を正し、ことばをまことあるものにしなければならない。
貪ることをやめ、怒りをなくし、悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない。
もし心が邪悪に引かれ、欲にとわられようとするなら、これをおさえなければならない。
心に従わず、心の主(あるじ)となれ。
心は、人を仏にし、また、畜生にする。
迷って鬼となり、さとって仏と成るのもみな、この心のしわざである。
だから、よく心を正しくし、道に外れないよう努めるがよい。
弟子たちよ、おまえたちはこの教えのもとに、相和し、相敬い、争いを起こしてはならない。
水と乳のように和合せよ。
水と油のようにはじきあってはならない。
ともにわたしの教えを守り、ともに学び、ともに修め、励ましあって、道の楽しみをともにせよ。
つまらないことに心をつかい、むだなことに時をついやさず、さとりの花を摘み、道の果実(このみ)を取るがよい。
弟子たちよ、わたしは自らこの教えをさとり、おまえたちのためにこの教えを説いた。
おまえたちはよくこれを守って、ことごとにこの教えに従って行わなければならない。
だから、この教えのとおりに行わない者は、わたしに会っていながらわたしに会わず、わたしと一緒にいながらわたしから遠く離れている。
また、この教えのとおりに行う者は、たとえわたしから遠く離れていても、わたしと一緒にいる。
弟子たちよ、わたしの終わりはすでに近い。
別離も遠いことではない。
しかし、いたずらに悲しんではならない。
世は無常であり、生まれて死なない者はない。
今わたしの身が朽ちた車のようにこわれるのも、この無常の道理を身をもって示すのである。
いたずらに悲しむことをやめて、この無常の道理に気がつき、人の世の真実のすがたに眼を覚まさなければならない。
変わるものを変わらせまいとするのは無理な願いである。
煩悩の賊は常におまえたちのすきをうかがって倒そうとしている。
もしおまえたちの部屋に毒蛇が住んでいるのなら、その毒蛇を追い出さない限り、落ち着いてその部屋で眠ることはできないであろう。
煩悩の賊は追わなければならない。
煩悩の蛇は出さなければならない。
おまえたちは慎んでその心を守るがよい。
弟子たちよ、今はわたしの最期の時である。
しかし、この死は肉体の死であることを忘れてはならない。
肉体は父母より生まれ、食によって保たれるものであるから、病み、傷つき、こわれることはやむを得ない。
仏の本質は肉体ではない。さとりである。
肉体はここに滅びても、さとりは永遠に法と道とに生きている。
だから、わたしの肉体を見る者がわたしを見るのではなく、わたしの教えを知る者こそわたしを見る。
わたしの亡き後は、わたしの説き遺した法がおまえたちの師である。
この法を保ち続けてわたしに仕えるようにするがよい。
弟子たちよ、わたしはこの人生の後半四十五年間において、説くべきものはすべて説き終わり、なすべきことはすべてなし終わった。
わたしにはもはや秘密はない。
内もなく、外もなく、すべてみな完全に説きあかし終わった。
弟子たちよ、今やわたしの最期である。
わたしは今より涅槃に入るであろう。
これがわたしの最後の教誡である。」
お待たせしてしまいましたが、長野から車で無事に移動して、ホテルに入りました。
つらつら、本を読みながら、大切なことに気づき、また法華経本門の菩薩行の尊さを思い返します。
本当に、尊い。
み仏の教えにお出会いできて、心からよかった、ありがたい、と思うばかりです。
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