2024年12月4日水曜日

【12月月始総講】喜びのない信心はない【長松清潤ご住職】


御教歌「うれしさを忘れぬ人ぞ世の中の 人にすゝめて法を弘むる」

御教歌「さとれるをさとらずといひさとらざる 信者をさとるといふ宗旨也」

「諸の疑惑なく 心に大歓喜を生じて 自ら当に作仏すべしと知れ」法華経 方便品 第二
「様々な疑惑を持つことなく、心に大歓喜を起こして、自らまさに成仏すると知りなさい」」

植木雅俊先生訳
「だからこそ、世間〔の人々〕の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込められた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとなるであろう 。〔だから〕あなたがたは歓喜を生じなさい。」

「歓喜踊躍(かんぎゆやく)」 妙法蓮華経譬喩品第三

「我等今日 仏の音教を聞いて 歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり」

「仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す。」法華経 嘱累品 第二十二の結びの御文

妙法蓮華経 五百弟子受記品第八は、その冒頭から「踊躍」という言葉。

「貧人此の珠を見て 其の心大に歓喜し」五百弟子受記品

「御義口伝(おんぎくでん・六老僧 日興上人による日蓮聖人 講義録)」
「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。」

「御義口伝」 全文
「五百品
・日本国一切衆生
・題目御本尊
・心法色法
・煩悩即菩提生死即涅槃
貪人見此 珠其 心大歓喜
信心ノカタチ
此の文は、始めて我が心、本来の佛なりと知るを即ち大歓喜と名く。所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。」御義口伝・昭和定本2708

同じく「御講聞書(おんこうききがき・六老僧 日向上人による日蓮聖人 講義録)」

「一貧人見此珠其心大歓喜の事。
仰に云く、此の珠とは一乗無価の宝珠なり。貧人とは下根の声聞なり。惣じては一切衆生なり。
所謂、末法に入つて此の珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を信じ奉る者は心大歓喜せり。
されば見宝塔と云ふ見と此の珠とは同じ事なり。所詮此の珠とは我等衆生の一心なり。一念三千なり。此の経に値ひ奉る時、一念三千と開くを珠を見るとは云ふなり。此の珠は広く一切衆生の心法なり。此の珠は法の中にある財用なり。一心に三千具足の財を具足せり。此の珠を方便品にして諸法実相と説き、譬喩品にては大白牛車、三草二木、五百由旬の宝塔、共に皆一珠の妙法蓮華経の宝珠なり。此の経文色心の実相歓喜を説くと見へたり。
見此珠の見は色法なり。其の心大と云ふは心法なり。色心共に歓喜なれば大歓喜と云ふなり。
所詮此の珠と云ふは我等衆生の心法なり。仍て一念三千の宝珠なり。所謂、南無妙法蓮華経なり。」'御講聞書・昭和定本2574

同じく法華経に示された十四誹謗の一つに「顰蹙(ひんじゅく)」ある。意味は「しかめっ面
」=「正法正師を見て顔をしかめて非難する」。

「感動」の反対。「顰蹙」あるいは「無関心」を装うこと。
これらは「謗法」「罪障」

「うれしさ身にも心にもあまりてをき慮なし。歓喜踊躍これなり。捨身決定して励むべき也」扇全5巻400頁

「悌立講の初心の題目の行者此義趣を心腑に染付て、歓喜踊躍して今生人界の思出と口唱すべき也」扇全14巻394頁

「口唱にあらでは利益蒙りがたく、歓喜にあらざれば信者と申ものになし。われと。わかでに。今度の成仏のなるや、ならずは、知らるる也。」4/179扇全4巻179頁

「障未除者爲怨の事」扇全16巻126頁には明確にお示し。

「関目抄(三二オ)
妙楽云。障り未だ除かざる者を怨と為し、聞く事を喜ばざる者を嫉と名づく。
自ら喜び難き。これ罪障也。
睡眠、退屈、懈怠等、皆サハリ也。
弘法の為に身を働かし心を用ふること喜ばれざる者、これ未徐者也。」

「この障りを除きて
喜んで説き
喜んで聞き
喜んで口唱読誦する者
喜んで法筵をもうけ
喜んで供養し
喜んで人を誘引して参詣し
喜んで供養を受け、する者
法華経の持者、弟子、旦那の菩薩也。
この怨嫉を除き
人の怨嫉を責めずんば
何ぞこれを菩薩と言わん。
何ぞこれを佛子と言わん。
何ぞ供養を受けることを得んや。
人身を得、大法にあい
喜ばざるは
これを信者、行者と云ふべきや。
何ぞ成仏することを得ん。
もとより成仏を願はぬ者也。」
扇全十六巻一二六頁

御仏の、法華経の御法門をよろこんで聴聞できない者は仏法を怨み、嫉む者である。自分の背負っている罪障が深いからこそ、喜べないのだ。
気をつけなさい、罪障に負けていてはいけない、御利益もいただけない、と。

この妙楽大姉の御指南は、ご信心前を計る尺度です。
つまり「喜び」「随喜」「感謝」「感動」の有無が、本物か、ニセモノかの指標。

日蓮聖人の御妙判。
「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。」崇峻天皇御書・昭定一三九七頁

お祖師さまのこの御妙判の御意をいただけば、その人の表情や言葉や所作振舞に「喜び」「感謝」「感動」が表れているか、いないか、という点こそ大事。
それが、本物か、偽物かを判断する指標。
すでに、あなたの顔に、言葉に、行動に、現れているのです。

この「喜びの有無を、自分の生活やご奉公に当てて省みてみる。食事をする、食事を作る、会社に行く、仕事をする、お参詣する、お給仕する、法城護持をする、その生活の場面、場面に、喜びがあるか、ないか。

開導聖人は、
「自ラ喜ビ難キ。コレ罪障ナリ」
「喜んで聞かざるは仇」
とお示しです。

喜びが無いということは仏道修行をしている仲間のようで実は反対側にいる「敵」のようなものだということです。

感動のない、元気のない、笑顔のない者は「未除者」「謗法と罪障にやられている者」ですから、三類の強敵、「俗衆増上慢」「道門増上慢」「僭聖増上慢」であると心得ましょう。

ニセモノにならないように修行してください。
南無妙法蓮華経
ありがとうございます。

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