御教歌
「いか計うれしき事のあるやらむ みるにゑまるゝみるにゑまるゝ」
ご信心は感謝と感動です。
苦しかった時、だからこそ、助けていただいた時、御利益をいただいた時、その歓喜、感激、感謝、感動を忘れず、忘れていたら思い出し、奮い起こし、信行ご奉公に気張らせていただきましょう。
本門佛立宗の本物のご信者さん、お教務さん。誰が見ても、全身から喜びが溢れているような人、「歓喜踊躍のご信心」、その大切さを感得させていただく御教歌。
どれだけ嬉しいことがあったんだろう。見ていてこっちまで笑顔になる、見ていて思わずこちらまで微笑んでしまう。
そんなこと、ありますよね?
「うわー、あの人、幸せそうだなー」「なんかいいことあったのかなー」「いいね!」と。
もし、そういう人を見て、
「なんだヘラヘラしやがって」
「幸せそうでムカつく」
「イライラする」
となっていたら、もう鬼、ガキの心、修羅の心が出ていますね。これはヤバい、マズいです。お看経してください(笑)。
幸せな人を見ていたら、こちらまで幸せな気持ちになる、思わず笑顔になる。
「笑う門には福来る」
いつも笑顔で、笑っている人には、幸せが訪れる、という意。
「和気財を成す」という言葉もあります。「和気」とは楽しくて仲が良さそうな雰囲気のこと。
「楽しくて仲が良さそうな雰囲気の所には自然と運気がやってくる。だから「財を成す」「お金が入ってくる」「お金が貯まる」という意味の諺。うまく行っていない時でも、雰囲気を良くするように心掛けると、徐々に運気が回復してくる。うまくいっていないから暗くなる、元気がなくなる、イライラする、塞ぎ込んでいるようでは、そこからずーっと抜け出ることができないでしょう。もったいないです。
さて、いかがでしょうか?
どんな顔、どんな心、どんな気持ちで、毎日を過ごしているでしょうか?ご信心させていただいているでしょうか?
仏像ではないけれど、普通の人は仏教の悟りの世界は、静かで笑いもしない、無表情ななんとも言えない凡人には分かり得ない世界だと思っているのではないでしょうか?
確かに、スリランカの上座部仏教、テーラワーダのお坊さんは笑わないです。
説明すると難しいのですが、笑うことは戒律で禁じられている。
ところが、お経の王様、法華経に示されたことは違うんです。悟りの世界、その心持ちというのは、歓喜、感動、躍動する喜びの世界だというのです。
法華経の様々な場面でこのことが説かれています。
法華経の方便品には
「諸の疑惑なく心に大歓喜を生じて自ら当に作仏すべしと知れ」法華経 方便品 第二
譬喩品には
「心大に歓喜し踊躍すること無量なり」 譬喩品 第三
「我等今日仏の音教を聞いて歓喜踊躍して未曾有なることを得たり」譬喩品 第三
とあります。本門八品を締めくくる嘱累品第二十二も最後の言葉は「歓喜」です。
「仏の所説を聞きたてまつりて、皆大いに歓喜す」嘱累品第二十二
凡夫ですから、笑いを難しく考えても仕方ないです。
嬉しかったら、表情に現れる。全身から「ああ、あの人、いいことがあったんだね」と分かるくらいの喜び、感謝、感動、それは踊り出すほどなんです。
「踊躍」っていうのは「喜んで、おどり上がること。とびはねること。」です。
難しく考えず、法華経の教えでは、末法の凡夫、ありのままに、みんなで、どこにいても、誰が見ても、「ああ、あの人を見ていると、こちらまで幸せになる、元気になる、思わず笑顔になる」というようなご信心が出来たらいい。
なかなか、出来ない。しかし、そこが、ここが、目標、修行です。
本門佛立宗のご信心では「宗論問答無益」という教え、ルールがあります。宗論、つまり教義を戦わせて、議論しても、意味がない、メリットなし、だから禁止、やめておきな、ということです。
では何を戦わせるか、何で勝負するか?どうやってお教化するか、法灯相続するか、ということになります。
本門佛立宗の場合、それは現証くらべ、御利益で勝負する、随喜比べ、御法さまへの、御利益をいただいたことへの、感謝、感動、歓喜、感激を比べる、ということになります。
そのくらい法華経に示されている信者の姿、弟子の姿「歓喜踊躍」は大切なのです。
信心とは随喜です。
信心とは本心です。
本心が随喜です。生きているから随喜です。喜べないのは罪障です。感謝や感動を失うのは本心ではなく、謗法や罪障にやられているからです、負けているからです。
「古法華利益なし」
このように考えると、古法華とは謗法と罪障に逆戻りした人のことです。
そうなってはいけません。
頭でっかちになり、慣れて、揺れて、慢心していると、罪障にやられてしまいます。
生きていれば、つらいこと、苦しいこと、寂しいこと、イライラすることばかりです。
ご信心でも、末法では簡単じゃない、難しい、行き違うこと、すれ違うこと、いっぱいあるし、「なんでこんなことしなきゃいけないの」「なんでそんな言われ方しなきゃいけないの」「なんで」「どうして」と思うこともたくさんあります。
でも、それでも、法華経のご信心の、お祖師さまの教え、本門佛立宗の本物の教えとはなんなのか、しっかりといただいて、しっかりと貫いていかなければなりません。そうでなければもったいないです。
謗法に負けてはダメ、罪障にやられてはダメ。
日蓮聖人のお言葉(御講聞書)。
「所詮、信と随喜とは心同じきなり。随喜するは信心なり。信心するは随喜なり。」
開導聖人の御指南
「うれしさ身にも心にもあまりてをき慮なし。歓喜踊躍これなり。捨身決定して励むべき也」扇全五巻四〇〇頁
「佛立講の初心の題目の行者。此義趣を心腑に染付て、歓喜踊躍して今生人界の思出と口唱すべき也」扇全十四巻三九四頁
「他人の信心にも随喜すべしそねむは謗法なり」御書抄(全)扇全十五巻三三〇頁
どうか、ご信心は感謝と感動です。感謝、感動のないご信心はございません。
なければ、反省、改良するしかありません。
苦しかった時、だからこそ、助けていただいた時、御利益をいただいた時、その歓喜、感激、感謝、感動を思い出し、奮い起こして、信行ご奉公に気張らせていただきましょう。
本門佛立宗の本物のご信者さん、お教務さん。誰が見ても、全身から喜びが溢れているような人、「歓喜踊躍のご信心」に励むことが大事とお教えいただく御教歌です。
故に御教歌に。「いか計うれしき事のあるやらむ みるにゑまるゝみるにゑまるゝ」
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