『御仏の教えを素直にいただく』『正しくご信心をさせていただく』。それは、それまで見失っていたこと、忘れていたことに目を向ける、気づく、ということ。
ですから、ご信心にお出値いし、喜びを感じている人は、眼が開いてくる、色眼鏡が外れる、目の前から霞が、雲が、キリが晴れていく、という体験をすることになる。
良い意味でも、悪い意味でも、自分の本当の姿が、目の前に映し出される。御法さまにお出値して、御宝前に座ると、様々なことを教えていただける、自分で気づかせていただける、見せていただける、そういう喜びがある。
つまり、『法華経本門のご信心をする』ということは『目が開く』ということ。お祖師さまの御妙判に『開目抄』とあるのは、『目を閉じて生きている人々に、目を開いて生きる道を示す』という深意があられた。人間として生まれてきて、目の前をブラインドしたまま生きていることほど哀しいことはない。目を開いて生きる、生きれる、ということは、この上なく嬉しいこと、有難いこと、尊いことである。
眼が開いてくると、物事の因果、自分の周囲の因果が見えてくる。「なぜこうなるの?」「どうしてこうなってしまったの?」。普通なら気づけない物事の原因が見えてくる。結局、それが「見える」と言っている意味、「気づく」ということ。日々の生活の中で、「サイン」に気づいて、最初は「サイン」の本当の意味の解釈を間違うこともあるけれど、その意味を御法門に照らしていけば分かるようになる。
眼を閉じたまま、耳をふさいだまま、どうでも良い状態で突っ走っている、突っ走って生きている間は、見方を変えれば「もう、そんなの関係ねー」という状態。本人だけ、「俺は分かってる」とか「見えてる」とか思っていても、残念ながら多くの場合は偏っていたり、全くの「夢」だったり、「幻想」や「妄想」と同じと言われても仕方ない。やはり、目が開いていない。だから、失敗し、後悔する。間違いを繰り返す。悪循環してしまう。本当の意味では何も感じてない、行き当たりばったりということもある。
「見える」「分かる」というのも、最近の「スピリチュアル・ブーム」とやらで、「見えない世界」について語ったり、第六感的なことを言っていても、本当の仏教徒からすると、あまりにレベルが低い。「サイン」と言っても場当たりで、自分の都合の良いように解釈をしているだけ、という場合ばかりが目立つ。定規がないのに計っている、自分の勝手な尺度で測っている、と。正しいご信心、因果の道理、御法門を外していては、いつも「サイン」を読み間違う。
さて、ご信心には段階がある。
『ご信心とは、眼が開くこと』と言ったが、『眼が開く』ということは、実は良いことばかりではない。今までは目を閉じていた、目を逸らしていて済んだ、見てみないふりをしていた、そうすることができた。そうやって避けてこれたことが、『見えてしまう』のだから、それは嬉しいこと、楽しいことばかりではないのだ。
「なるほど、自分が今苦しいのは、すべて自分の蒔いた種なのか」「こんな悪いところ、情けないところが自分にはあるのか」「自分が一番ダメじゃないか」、、、と。他人のせいにして、それで済んでいた時の方が楽だった。目を逸らしていたままのほうが、目を閉じていたままのほうが良かった。「罪障の自覚」とも言えるが、今までは感じていなかったことを、知る、見えるようになる。
信行、信心には段階がある。ある方が入信、ご信心するようになる。最初は喜んで、「ご信心させていただきます」と張り切ってる。「有難いですよねー」「うれしいなぁ」と。しかし、少しすると、最初に罪障が吹き出して、罪障の自覚が始まって、その罪障に呑み込まれてしまうことがある。
ご信心をされて一週間、一ヶ月、三ヶ月、半年、一年。人によって違いはあるが、突然、気分が落ち込んだり、ご信心を始めたことによって、不安感が増すような気持ちになったり、それまで無かったような迷い、心のザワザワが生まれたりする。「ご信心をしない方がよかったんじゃないかな」と思うような、結局それこそ「罪障」の本体に違いないけれども、しかし、それも自分自身が実際に感じてしまうことなのだから仕方ない。
眼が開くと、苦しくなることがある。見えている分、見えてしまった分、不安定になることがある。いや、それではいけないよと教えていただく。
『罪障の有無は心にかけずして 経力たのめ南無妙法蓮華経』
苦しかろうが、辛かろうが、本来「罪障がある」「誰のせいにも出来ない」「自分の幸不幸、人との出会い、いま背負っている苦しさや辛さ、病も問題も、それは結局、自分に帰結するんだ」「自分じゃないか」「誰のせいにもできないじゃないか」と。それは仏教の原点、因果の道理の結論に違いない。
だから、その自覚、目の前のブラインドが取れて、見えるようになって、「あぁ、私にはこういう因果、こうした果報、こんな罪障があるんだ」という気持ち、姿勢は、私たち仏教徒にとって本来欠かせない。常々「無始已来~」と拝唱させていただくとおりだ。
しかし、上行所伝の御題目をいただいている以上、その自らの「罪の意識」にさいなまされ、押し潰され、止まっているだけではダメだ、と教えていただく。
罪障はある。しかし、御題目を謗る、謗法(普遍的な御法を謗る、Dharmaに反した行為)以上に深い罪障は無い。つまり、普遍的な御法に立ち返り、そこにアクセスし、リンクし、御仏と一体になるという法華経本門の信仰、上行所伝の御題目をいただいて信行する中で、消えぬ罪などないと教えていただくのだ。
ご信心に出会う以前に犯してきた大きな罪がある、あるいはご信心に目覚める前に重ねてきた罪がある。ご信心をするようになってからお折伏をいただき、御法門を聴聞するまで気づけなかった、いやそれで気づいた罪障がある。そこにフォーカスできるようになる、見えるようになる、気づく、気づけた。しかし、そうなったことによって、立ち止まったり、不安を増したり、萎縮していてはダメだ、と教えていただくのだ。
俺は悪いことをしてきた。あぁ、結局自分が悪いんだ。なんだ、情けない、と思う。でも、そこで止まっているわけにはいかない。では、どうする?何をする?萎縮してる場合ではない。そこで止まっていては、ご信心にお出値いした本当の意味、価値が無くなる。
何度も言うが、ご信心には段階がある。その段階ごとに、目の開き方、気づき方、サインの受け取り方に違いがある。ご信心をさせていただいた瞬間から全てに気づけるわけではない。凡夫特有の勘違いや間違いは、御題目を唱え重ねていく中で徐々に修正され、お参詣や御法門聴聞を重ねる中で、様々なサインを正しく受け取り、正しく実践できるようになる。
その『修行』を『重ねる』ということが中途半端な状態だと、勝手な解釈になったり、勘違いが続いたり、せっかくご信心するようになっても、不安になったり、上行所伝の御題目にお出値いしたのに、それ以前よりも不安定になったり、萎縮したり、落ち込んだりしてしまう。時には、ご信心をするようになったことで、逆に生意気になったり、人を見下したり、慢心したりすることもあるくらい。それほど、「階段を上る」ということ、「目を開く」ということについては段階的な「修行」、素直な信行を視野に入れなければならない。
御題目を唱え重ねて、しっかりと御法門聴聞していれば、必ず、本当に素直な、本当の意味で、人間として自由な生き方が出来るようになる。以前のように、目を閉じていたまま、目を塞いで生きていくわけにはいかない。真の仏教徒とは、「自分の罪を知らない」ということもなく、「人のせいにし続けて生きる」ということもなく、それでいて「罪の意識にさいなまれる」「萎縮する」「立ち止まる」ということもなく、もう必要以上に見栄を張って、背伸びして生きることもなく、本当の意味で前向きに、ひたむきに、等身大で、精一杯生きることができる。これが本当の仏教の教え、本門法華経の教え、本門佛立宗のご信者の在るべき姿。ご信心に出会っていただく、私たち佛立信徒の、人間性の成長、素晴らしさ。
ご信心には段階がある。その階段を上り、精一杯、力強く生きれるようになったら、これほど素晴らしいことはない。それこそ「菩薩の誓い」の実践ではないか。
こんな私でも人の為に祈れる。こんな私でも人にためにこのお薬、御題目が届けられる。こんな俺でも、仏さまの教えを伝えられる。こんな私でもお供水を病気に方に届けられる。人の為に泣ける、人の為に笑える、嬉しい、ありがたい、と。
自分の器は、まだまだ大きくないかもしれない。欠けているかもしれない。自分のやってきたこと、欲望で、嫉妬で、怒りで、自分の抱えている色々な罪障で、私は幸せになれないのではないか。しかし、そうして立ち止まって考えるのではなく、御宝前に向かって、御題目にもたれ、お縋りし、お唱えして、精一杯に生きていけるではないか、と。
『罪障の有無は心にかけずして 経力たのめ南無妙法蓮華経』
本物の仏教は、徹底して「今」を重視する。「今」、「今」。
「過去を知ろうと思ったら、現在の結果を見てごらん。未来の結果を知ろうと思ったら、現在おまえがやっていることを見てごらん」。これが仏教の因果の道理である。過去や過去世を占ってもらう必要もなく、未来も占ってもらう必要もない。「結局、今のおまえは何をやってるんだ?」ということ。徹底して、単純明快ではないか。「過去に囚われるものでもない、未来を夢見ているだけでもダメ。今なんだ」と。
御題目のご信者さんは、過去の亡霊につきまとわれている暇はない、未来の幻想を夢見ているだけでもダメだ。「結局、おまえは今どのような生き方をしているんだ」、そこに注目しなければならない。だから、クヨクヨしている暇もなければ、ボヤーッとしてる、ふさぎ込んでいる時間もない。精一杯、一瞬一瞬、一日一日、断固として精一杯、自分の器を生きる、生きれる。
お祖師さまは、
「只、南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らば、滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福(さいわい)や有るべき。真実也。甚深也。是を信受すべし」
と御妙判くだされている。
「ただ、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経とお唱え奉ることができたら、滅しない、消えない罪はない。幸せが来ないわけがない。これが真実であり、甚深の教えである。これを信じ、受け止めなさい」と。お祖師さまはビシッと教えてくださっている。
罪(罪障)を知る、自覚することは仏教の大原則、最も大事なこと。しかし、そこで止まっているわけにはいかない。御題目をお唱えして、必ずその罪障を取り除き、乗り越えられると。そう信受しなさい、と。
大切なこと。私たちは、日々、クヨクヨも、ボヤボヤもせずに、御題目をいただいている喜びの階段を上って、本当の意味で自由に、自分の器の中を精一杯生きる、人間として成長する、心を磨く、菩薩として生きれるように、信行ご奉公に気張らせていただくことが大切である。
『罪障の有無は心にかけずして 経力たのめ南無妙法蓮華経』
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1 件のコメント:
ありがとうございます。
これ、月始総講の時の御法門ですよね?載せて下さって嬉しいです。とても有り難い御法門だったので原稿ほしいなぁ~と思っていたんです。ありがとうございます。
階段をのぼっていく。自他共に。部長をさせていただく上での、本当にこれが課題だと思っています。
実は、さいきんまでずっと、御法様からいただいた試練、サインの意味を理解できずにいたのですが…。きっとこういう事だろうと思えた翌日がこの御法門でした。
その通りだと教えていただいたようで、確信を深めることができました。本当に有り難かったです。
階段をのぼる為には、まさしく自分とのたたかいですね。だから『負けてはならぬ』なのですね。有り難いです。
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