京都、長松寺のお総講が終わりました。
深く息をつく。
。。。。。
「聖人の唱させ給う題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきや』
「更に勝劣あるべからず候」
「其の差別なき也」
「但し此の経の心に背て唱へば其の差別あるべき也。」
謗法、罪障の汚れなく、素直に、正直に、向かうことの大切さ。
「此の十四誹謗は在家出家に亙るべし。恐るべし。恐るべし。」
「軽善」「憎善」「嫉善」「恨善」など、もったいないエネルギーです。
ご奉公、ご弘通に、ブレーキばかりかけていては仕方ありません。
功徳は、自分で積み重ねてゆくこと。
徹底して、与え続ける覚悟が、次を生み出します。
批評家、評論家ではいけないと、これまでも再三再四お教えいただきました。
師匠のいないところに、信心も、修行もありません。
自分が師匠として、お弟子さんたちに、
「おいおい、俺を敬えよー」
と言っているのではないのです。
形式ではなくて。
自分も含めて。
人生で、ご信心で、師のいないことほど、不幸なことはありません。
「慢心の おこりはじめや師を捨て おのれ師匠にならんとぞする」
同じ御題目なのに、同じ功徳なのに、変わってしまう、変えてしまうのは、自分。
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