2015年9月7日月曜日

坂本堤弁護士ご一家の遺体発見から20年

どうしても、書いておかなければならないと、思っていたことがあります。

昨日、オウム真理教による坂本堤弁護士一家殺害事件で、ご一家3人のご遺体が発見されてから、20年目を迎えました。

無慈悲で、身勝手な、狂気の宗教。

自分たちを批判する弁護士を、幼い子どもとともに拉致・殺害して、その遺体を遺棄するという凶悪な犯罪。

その3人のご遺体は、わざわざ、新潟県、富山県、長野県という、別々の場所に埋められていました。

何という恐ろしさだろう。

殺害事件の凶悪さはもちろん、その埋葬場所を見ても、小さな赤ちゃんを、お父さんとお母さんから引き離し、夫婦を遠く引き裂くという、人間性の欠片もない、おぞましいまでの凶悪さ、無慈悲さです。

ご遺体の発見場所の地図を見て、あらためて涙がこみ上げてきて、この恐るべき凶悪事件の本質、反社会的なカルト宗教について語らなければならないと思いました。

ご存知のとおり、この凶悪な犯罪を冒したのは、もともと反社会的だった重犯者ではなかった。

むしろ、そうした非人道的なことをするとは思えない、高学歴の、いわゆる真面目な人が多かったのです。

しかし、彼らは、今の世界や自分の人生について不安や不満を抱えていて、それらに光明を見出したいと願っていました。

超自然的なもの、神秘的なもの、超個人的なものに憧れていて、深層心理学を学んだり、トランス・パーソナルを説く学説、いわゆるニューサイエンスに魅せられたりしていた。

そして、多くの人はヨガを入り口に、麻原彰晃の説くところに近づいていった。

自分を超えたい、という思い。

自己を開発したい、という願い。

ヨガでは、呼吸法だけで「酸素酔い」のような状態をつくることが出来ます。

トランス・パーソナル心理学では、ウィルバーが説いたように薬物によって「トランス(超える)」「パーソナル(個人を)」な状態を垣間見せて、さらに深淵な世界があるとしました。

それは、そうです。

しかし、それを仏教的に解釈すれば、何ということもない。

彼らは、酸素酔いをはじめとする「トランス(恍惚)」な体験を、尊く、得難い宗教体験だと錯覚して、迷宮に入ってゆきました。

そうして得てゆく超人的な境涯が、「悟り」や「解脱」だと勘違いして。

「さとれるを さとらずといひ さとらざる 人をさとると いふ宗旨なり」

こうした法華経本門の説くところ、その精神や生き方などは、彼らにとって全く理解できないところです。

麻原をはじめとして、彼らの持つ圧倒的なエゴ、そのエゴから生まれた欲望は、それが宗教に向かっていても、すでに常軌を逸することが目に見えていました。

多くのカリスマと呼ばれる人がそうであるように、それを持っていたであろう麻原は、自己の中に渦巻く声に見境がつかなくなり、結果として「三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)」に魂を焼かれ、狂気の指示を出すようになりました。

いま、オウム真理教から名前を変えた系列の団体が増えています。

麻原彰晃を「グル」と呼んで崇拝し、修行を続けている団体もあります。

彼らは、坂本堤弁護士一家殺害事件も、地下鉄サリン事件も、「冤罪」「ぬれぎぬ」だと言い、ヨガに興味のある人を本屋さんの店頭などで見つけて、声をかけては勧誘している。

あるいは、麻原彰晃とは一線を画した団体でも、結局その教えや修行の中身は麻原彰晃の下にいた頃のものと変わりません。

超個人的な体験を求め、エゴのままに、エゴから生まれる欲望のままに、宗教的な何かを求めて彷徨っています。

坂本弁護士一家殺害事件も、地下鉄サリン事件も知らない世代が、閉塞した社会の中で不満や不安を募らせ、またこうした狂気の宗教に迷い込んでいるのが実際だと言います。

あの事件以来、宗教も、仏教も、信頼を失いました。

私自身も、20年来、ずっと、オウム真理教事件に代表される宗教の持つ矛盾、宗教の持つ狂気、宗教者の陥る穴、信仰の持つ危うさ、脆さと向き合い、悩みながら、挑戦してきたように思います。

果たして、宗教や仏教、そして信仰の持つ尊さ、可能性、普遍性を、あのような偏向した狂気の事件によって、見失ってはならない。

あの大事件を永遠の教訓として、さらに力強く伝えるべき叡智が、仏教にはあるはずです。

それが、先日も「呪殺」について書いたような、密教と顕教の違いや、妙法蓮華経に説かれる、自分はあなたであり、あなたは私であるという、普遍の、不偏の、不変の思想、真理だと思います。

いま、オウムも何もかも、風化し続ける世の中にあって、やはり仏教という希望を説かなければならないと思っています。

別々の場所に埋められていたという、坂本堤弁護士ご一家の、一人ひとりのご冥福を心から祈り、祈るからこそ、自分に出来ることをさせていただかなければならないと誓うのでした。

新聞にもありましたが、多くの人が「生きにくさ」を感じる中、力を尽くして、カルト教団よりも生きやすい世の中にしなければなりません。

とはいえ、「人のせい」にしている間は、幸せは来ない。

被害者意識ばかり強くして、小賢しく自尊心が強いから、孤独になり、生きにくくなるということも、学ばなければなりません。

難しいけれど、それが人生だから。

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