映画『国宝』を14回ほど観た。暇な人と思われるかもしれませんが、移動時間を利用したりして何度も観ました。
何と言葉にすればいいか。おこがましいですが自分に重ねながら何度も観させてもらいました。よく出来た物語。脚本、演出、演技、素晴らしかったです。
『国宝』は、歌舞伎の世界を舞台に、「血筋」と「才能」、そして芸の道に人生を捧げる人間たちを描いた物語です。
主人公の喜久雄は、任侠の家に生まれながら、天賦の才を見出され、歌舞伎の世界に入ります。一方、俊介は歌舞伎の名門の家に生まれ、幼い頃からその伝統を背負って育った御曹司です。
二人は同じ師のもとで芸を磨き、親友であると同時にライバルとなっていきます。この映画の深いところは、「世襲は悪、実力主義は善」という単純な話にしていないところです。
喜久雄は、どれほど才能があっても「血を持たない者」の壁にぶつかる。一方、俊ぼんは、血筋を持っているからこそ、その重圧や期待から逃れることができない。
そして二人とも、多くを失い、傷つきながら、それでも芸から離れられない。やがて「どちらが正しいか」という壁を超えて、芸そのものを極めようとする人間の生き方が浮かび上がってきます。
だから『国宝』は、単なる歌舞伎界の成功物語ではなく、「受け継ぐとは何か」「才能とは何か」「血筋とは何か」「道を極めるとは何か」を問う作品です。
「世襲か、実力か」という単純な二項対立にしていない。二人は対照的でありながら敵対しない。互いの持っているもの、持っていないものを知り、時に嫉妬し、傷つき、それでも互いの芸を認めながら、それぞれが芸道に真剣に向き合っています。
「家に生まれた」ということと、「その道を生き切る」ということは、まったく別のことです。
京都の、仏の教えを受け継ぐ家に生まれ、幼い頃から本門佛立宗の信仰と伝統の中で育ちました。自分で選ぶより先に「道」のある人生でした。
しかし、生まれた家が信心を保証してくれるわけではありません。逆です。僧侶の家に生まれたからといって、信心が深くなるわけでも、修行が身につくわけでもありません。
むしろ、与えられたものが大きければ大きいほど、
「自分は何を修行したのか」
「自分は何を身につけたのか」
「自分はこの道にどこまで命をかけているのか」
と問われ続けるものです。
拙著『佛立魂』にも書きましたが、「現証入り」「法門入り」の別もあります。当たり前ですが、家名だけ、世襲のみ、形だけ、では許されないのが仏道修行の世界です。だから、ここに生まれた者も必死です。
一方、在家から発心出家した人たちの姿に心を打たれることもあります。自分でこの信心に出会い、自分で決意し、自分で人生の方向を変え、仏道に飛び込んだ方々です。
その純粋な信心、その覚悟、その実力に、世襲の者にはないものを見ることがあるのです。
『国宝』の喜久雄を見ながら、そんな人たちの姿を思いました。
同時に、俊ぼんの背負っているものも、痛いほど分かる気がしました。
伝統は、自分一代のものではありません。長松家の者として受け継いできたものがあります。それは「家を守る」という意味だけではありません。
本門佛立宗のアイデンティティ、佛立らしさを、原点にまでさかのぼって、学ばせていただきたいです。
本当に大切なのは、「どちらが」ではなく、「誰が本気で道を求めているか」です。芸道も、仏道も、最後に問われるのは「道」に対する誠実さ、まさに「求道心」です。
『国宝』を観ながら、自分がどこから来て、何を受け継いだのか、そして、これから何を残してゆくのか、何度も考えさせられました。
世襲であることではなく、そこから逃げるのでもなく、喜久雄のように、俊ぼんのように、それぞれの縁と使命の中で、修行によって本物となりたいものです。
道を極めることは到底できないかもしれませんが、道を求め続ける人間でありたいと思いました。
映画『国宝』。
芸道を描いた物語なのに、私には、仏道を歩む自分自身を映す鏡のように感じられました。
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