2008年12月8日月曜日

出来た!新しい御戒壇! ひろし君の御講

 全く、ブログ更新できなかった。

 いや、ちょっとM先生の、最高の言葉を、ずっと長く掲載しておきたかったから更新する気が起きなかった(汗)。いや、そんな言い訳したらいけないかな。それにしても、本当に、素晴らしい家庭内の会話。

 飾った言葉や変に賢そうな言葉なんて、伝わらない。このご信心の味わい、お看経の味わい、おはからいを、そのままストレートに表現してくれていて、どんな人でも、読んだらお看経したくなる。それこそ、菩薩の声だと思う。ありがたい。

 更新しなかったのは、インターネットの回線の調子がむちゃくちゃ悪いからということもある。週末になると光回線が止まってしまう。ランプが消える。誰か近所の方が利用し出すと、こっちまで回線がまわってこないかのように、週末や夜中になるとインターネットが使えなくなる。もう、2度も修理や点検、復旧にきてくれているのに、ダメ。なんで?NTTとYahoo BBで、うまくお仕事が出来ていないのかしら?あるいは、回線が追いついていないのに売ってしまっているのかしら?本当に、困ってしまいます。

 それと、やはりご奉公が過密でした。それも、内容の濃ーいご奉公が続いた。6日から今日の8日夕方までで、御講席が8席(その内の1席は壮年会住職御講)、布教区の会議、お通夜のご奉公が一座。もう、御講席(ご信者さまのお宅)から御講席へと移動して、ご奉公していくのでグルグル。有難いが、PCに向かう時間がなくなってしまった。しかも、壮年会の住職御講では御法門の勉強をさせていただかなければならないし。Y先生と同じくらい、しなければならないことに追われてしまいました(汗)。

 一つ一つのご奉公の内容が濃いということが有難い。本来、教務のご奉公が「浅い」ということなどあり得ない。例月の御講ですら、ルーティーンのご奉公ではないからだ。ご信者の皆さんに「志が大事」とお話ししているのだから、何あろう「志」で奉修される御講であり、その他のご奉公なのだから、「浅い」ことなど一つもない。

 今月、田代君の御講も特別なものだった。まだ20代であるにもかかわらず、教区御講の願主。これもすごい。さらに、彼は新居を購入する際、「教区御講の奉修できる住まいを」と御宝前の間とリビングの広い、お参詣者にとってお参詣しやすい家を探して購入したという。その最初の御講が今月奉修された。まごころのこもった、素晴らしい御講席となった。

 なにせ、奥さんのまゆみちゃんがエライ!まゆみちゃんは、本当にご信心への想いが強く、彼をリードしてくれている。来年からまゆみちゃんは臨海教区の教区長へ。なんと、20代の教区長が誕生する。すごいことだ。彼女だから出来る。お母さんの姿を見てくれていたのだなぁ。

 そして、また今月は、この上なく有難く、嬉しい出来事があった。それは、神港教区の御講席だったのだが、何と、はじめて、あのひろし君が席主となり、ひろし君の自宅で教区御講が奉修されたのだった。さらに、さらに、その御講は、御本尊奉迎の御礼御講と、御戒壇の建立御礼御講が併せて奉修されたのだった。こんなに嬉しいことはないなぁ。有難かった。ひろし君の家は広いリビングがあるのだが、大勢のお参詣者を迎えて、立派に奉修された。

 御本尊さまは、ひろし君が教化誓願を果たし、約8ヶ月で36人もの方々をお教化されたことから、授与させていただいた。当初、私は、御宝前にそんな大それた誓願を立てるべきではないと思っていたし、無理なことだと思っていた。だから、「もし、この誓願が成就されたら、護持御本尊を授与させていただく」と、なかば無理なことを想定してお話しした。護持御本尊とは、御導師から特別に拝受いただく護持者の名前を御染筆いただいた御本尊である。

 ひろし君の御宝前に立てた誓いは見事に達成され、多くの方がご信心にお出値いできたことを喜んでおられる。ここに、長松家が護持させていただいてきた開導聖人御真筆の護持御本尊を御修復させていただき、彼に授与させていただくこととなった。明治10年に御染筆された御本尊で、妙深寺の本堂の大御本尊と護持者も同じ真継徳太郎氏、年月もわずか半年しか違わない。本当に、尊く、有難い。

 御戒壇は、実は9月から本門屋さんの的場にお願いして、新しいデザインで作っていただいていた。私がイタリアでご奉公させていただいていて、何度か眼にした斬新な御戒壇。それらは、洋風のリビングにマッチしていて、実に「佛立的」だった。左の写真は、その一つでミルトが建立した御戒壇だが、本当に彼らのくらしの中に溶け込んでいて、有難かった。お看経もよくあげるミルトご夫妻。こうした御戒壇に、私は開導聖人のスピリット、イズムを感じた。

 そうした御戒壇に魅せられて、ひろし君であれば私が次世代を志向してデザインした御戒壇を受け入れてくれるだろうと、日本に帰国してから的場さんに無理をお願いしてデザインしていただいてきた。的場さんは庫裡の御戒壇の御修復などをしていただいたこともあり、いつも無理なお願いを聞いてくださってきたから甘えてしまった。

 スリランカの御戒壇も素晴らしい。彼らが独自にデザインしており、彼らの手によって製作されている。右の写真は川辺の工場で量産されている御戒壇だが、こうして21世紀の本門佛立の御戒壇が製作されてようとしていると思うと身震いするほど感動する。金色に塗られ、仏丸の刻まれたシンプルな御戒壇を、数多くの方々がお宅に奉安されている。

 スリランカでは、シニア・メンバーになると日本のご信者方ですら驚くような立派な御戒壇を建立されている。ただ、やはり経済的にも恵まれていない方が多く、こうして「佛立宗であれば」「開導聖人ならば」という考えから、御戒壇のデザインをし、一人でも多くの人が御本尊を奉安し、ご信心ができるようにと進めておられるのだ。

  開導聖人は、麩屋町の法宅に本門佛立宗にとって第一号となる御戒壇を建立された。他の仏教諸宗では「仏壇」と呼んでおられたのを、本来の意味に戻して一線を画し、「御戒壇」とお呼びするようにされた。

 その御戒壇は、「三方開き」という独特のデザインを用いられた。昔からの「仏壇」は、お御簾があったり、金襴の天蓋があったりして、その中の御本尊や御尊像が見えにくかった。今でも「仏壇」といえば、中をのぞき込まないと何が安置されているのかすら見えないものだが、本門の御戒壇はどちらからも御本尊や御尊像が拝見できるように、正面だけではなく、右も、左も、グッと側面が奥に引っ込められるようになっていて、「三方」に開く。つまり、どこからも、よく見えるのである。とにかく、より多くのお参詣者にとって、お看経しやすいようになっているのだ。「○△年に一度のご開帳~」と言っているのとは全く異なるのだ。

 ひろし君のお宅でデザインさせていただいたものは、全くシンプル極まりないもので、イタリアで拝見したものを基礎にさせていただいた。彼の家は外人さん向けの大きなマンションで、和室はない。完全な洋風のリビングで、とにかくお看経が出来て、多くのお参詣者をいただいて御講も出来る、斬新な新しい佛立の御戒壇として建立させていただいた。

 ちょっと斬新すぎて、神港教区の名物教区長である勝子さんは、はじめて見た時に「あらぁ?えぇ??」と仰ったそうだが無理もない。シンプル過ぎると思われたのではないだろうか。しかし、それも後から分かってくださると思う。だって、教区御講で「え?って思ったでしょ?」とお聞きしたら、「いや、ぇえぇ~、そんなぁ~」と微妙に否定しておられた。そして、やはり拝見させていただいて、有難いと思った。

 当然ながら、開導聖人が入られた当時の旧・宥清寺ですら法華宗の本堂の様式を踏襲されていた。それらは伝統的な本堂様式なのである。しかし、私は佛立第一号の御戒壇を建立された開導聖人の御意こそ大切にすべきだと思う。佛立は、御法門だけではなく余宗余門と天地水火の違目があるのだから。

 最近は「現代仏壇」という新しい時代の仏壇が考案され、実際に売上をあげているようだが、やはりお客さまの時には閉める「家具」のようなものや「ピアノ」のようなものが多い。「閉める」という概念が、ちょっと佛立らしくないと思う。どなたにも、誰にでも、お看経がさせていただける、お話が出来る御戒壇がいい、と思っていた。

 御講も、素晴らしい御講だった。笑いもあり、涙もあり、いつも、こうした御講席が持てることが嬉しい。ひろし君も大感激しておられた。これも、嬉しい。

 お参詣者は、40名だった。当初、お参詣の確認をとってみたところ30名くらいというお話だったので、40名分のご供養を用意された。当日、ぴったり40名のお参詣だったということで、本当に有難いと言っておられた。

 とにかく、開導聖人の御真筆御本尊を拝受して、この御戒壇に御奉安させていただいた。日夜朝暮に御題目をお唱えして、これまで以上に、人間の本業を貫いていただきたい。また、御講を奉修した、その日に、またお仕事で大変素晴らしい御縁をいただいたと、夜にいただいた御礼メールに書いてくれていた。そのタイミング、そのおはからいの速やかなることは、本当に恐ろしくなるほどだ。

 冗談のように、「懈怠したり、ご信心をやめたくなったら、御本尊はお戻しください」とお伝えした。いや、半分冗談ではないかな。御本尊は護持御本尊であっても御宝前からお借りしている。何かあれば、お寺に戻していただかなければならない。特に、開導聖人の御真筆御本尊をいただかれた以上、ひろし君に懈怠も許されない。少しでも気を抜かないようにと、こうしてお話しした。「絶対に、そんなことはあり得ません」と、力強くお話くださった。本当に、有難い御講席だった。

2008年12月5日金曜日

これを読んで欲しい!スーパーストレート、菩薩の声

 ありがたい。
 昨日、このメールが届いたのは長松寺の御総講の直前。突然、エネルギーが充ち満ちて、元気が出た。ほんと、ありがたい。
 Y先生とM先生、突っ走ってます。ものすごい僕のエネルギー源になってる。こういうメール、もちろんたくさんの方からいただくけど、すごくストレートで、何のかざりもない。ご信心をいただいて、この御題目を御本尊にお唱えできる家庭、つまりご宝前のある家で暮らし、日夜朝暮に御題目をお唱えできることに、心からの喜びを感じておられる。もう、ありがたくて、ありがたくて、かないまへん。
 驚天動地のご利益談、起死回生のご利益談も有難いが、開導聖人の御教歌には「信心のおこるばかりの御利益は 世にたとへなき宝なりけり」とあり、「ご信心が起こる」という喜びこそ、真の御利益なのだ。普通の家庭生活の中、社会生活の中で、これほど喜びを感じてくれているとは。
 また、こうした言葉をメールで送ってくれる先生にも感謝。だって、そのままにしていたら分からないもん。それを、こうして聞かせていただいて私も感動できるし、このブログを見る方々もきっと感動できる。「あぁ、そうだなぁ。そういうおはからい、気持ち、忘れていたなぁ」とか「私も、こういう気持ちでお看経させていただこう」と思える。思わないと。
 さて、是非、お読みいただきたい。こうしたご信者さんが妙深寺の中にたくさん増えていることこそ、ありがたい。ちょっと、笑えます。私、大声で笑いました。
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 御住職 ありがとうございます。
 家内がこの御信心のありがたさに随喜しております。以下のように申しております。あくまで家庭内の発言ですので、ご不敬の言葉だらけですが、お許しください。「御看経やる」ではなく、「御看経をいただく」ですね。わかっておりますが、そのまま、再現してみました。
 あなた、ブッダ、おそるべしだわ。おそるべし!御利益は強烈だわ。ほんと、御看経すると全然、違う。職場が全然違う。あなた、わかってるの。あなたは、ホントに感じてるの?あなた、何もらってるの?私は現証、ありまくりよ。佛立宗、おそるべし。知らない人は、絶対損してるわ。
 1日、(お線香)1本を、それも数回に分けてしかできていないけど、それでも、ポキポキ方式でも(1本を折ること)、1日当たり1本分をなんとかすると、全然違う。1本をやらないと、寝れない。御看経をしなくなってしまったときのことを考えると恐ろしい。ありえない。
 昨晩、1本の残り少しをやり残して、うとうと寝てしまい、気になって夜中2時に眼がさめてしまって、やってたのよ。あなた、気づいた?あなたはグーグー寝てたけど。あれで、1本を完了させておいて、よかったあ。
 今日、長年うまく人間関係をつくれなかった人から、「ありがとう」と、言われた。信じられない。ほかにも、毎日御利益ありまくりよ。もうやめられない。誰もわたしをとめれない。ブッダはみてるわ。ブッダ、おそるべし。全部をみてるわ。あの人は誰なの?何者?なんで、数千年先のわたしたちのことまでが、
わかるわけ。すごいわ。御看経は強烈な効果があるわ。
 こんな感じでございます。失礼いたしました。いつの間にか、家内と私の立場が逆転しているような(笑)。いやいや、わたしもがんばります。
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 どうです?笑えた?これでいいのです。スーパーストレートに、率直に、喜びを語りましょうよ。それで、いいじゃないですか。
 M先生、ありがたーい。もう、おがむ~。Y先生、がんばって~。

2008年12月3日水曜日

『人生の損益分岐点』

 一からやり直す準備をしておかなければならないと思う。来年は立正安国論の上奏から七五〇年の正当年となる。悠長に構えていて、いざという時に後悔しないようにしなければならない。
 金融危機は全世界を震撼させて、これから本格的な混乱を迎える。矛盾に満ちた経済システムからの脱却と新しい世界秩序の構築へと向かえば良いが、不景気は身近に迫り、私たちの生活基盤まで崩壊させる危険がある。地球は必死に自浄作用を働かせて、バランスを保とうと努めてくれてはいるが、人間の愚かさと強欲さはそれらを軽く上回っているように思える。
 立正安国論でお祖師さまが引用された大集経、金光明経、仁王経等にあるように、み仏の正しい法が埋没して隠れ、貪瞋癡の三毒は倍増して、家庭内に問題が絶えず、社会も自然界も混乱の危機に陥る。昨今の世界情勢に通じている。
 すでに、ライアル・ワトソン著「生命潮流」の「百匹目のサル」は作り話と断定されているらしい。しかし、幸島のサルがイモを洗いはじめたことが、全く物理的には関係のない場所の猿たちにも伝播したという話は人々を魅了した。
 ユングであれば、「集合無意識」や「シンクロニシティ」と定義を試みる。しかし、自然科学的には簡単に立証することはできない。仏教で明らかにされた宇宙法界の在り方には、これらの心の機能と作用、影響が細かく説き明かされ、三災七難の起因も極めて明確だ。
 人の心には驚異的な力があり、想いは万里を駆けめぐる。携帯の電波よりも強力に、心と心は結びつくことができる。それは人から人、動植物、自然界へと行き渡る。つまり、多くの人の思いが宇宙の法に違背して国や地球に満ちれば、人も国も世界も間違った方向へと突き進んでしまうのは当然だ。
 いざ、人心が荒廃し、生活基盤である社会が危機を迎えているというのに、何の答えも備えもなく、人と世の立て直しに尽力することもなければ仏教徒とはいえない。
 京都の秋は見事な紅葉に彩られ、どこも観光客で溢れていた。春は花、秋は月、そして山々を染める紅葉。誰もが憧れる古都。週末となると車も動かないほどだった。
 御教歌
「月花を 見てくらすべき 時にあらず 世に益あらん ことをつとめよ」
 幸福になる道を歩めていないのにもかかわらず、風流がる人々。人として、為すべきことを知らず、出来ていないのに、趣味や風情を楽しむことにかけては、人一倍の関心と努力を払う。そんな愚かなことがあるか、とお示しである。
 今こそ、世のため、人のためと、人としての本業を全うするために、心の柱、信心を立て直して、必死に努力すべき「時」なのである。
 開導聖人は、京都でお暮らしになられた。しかも、都でも一流の文化人として認められた方であり、情緒や機微を極めた方でもある。ストレスの多い私たちにとって、遠き山河に眼を転じ、草花を愛し、季節の移ろいを感じる心のゆとりも必要だろう。誰よりその大切さをご存じなのは開導聖人のはずだ。
 イスラム教のタリバンではないのだから、人間生活の中から趣味や季節感を排除せよと仰っているのではない。ただ、四季の移ろいから学ぶべきは、無常の身の上であるという自覚であり、限りある命の使い方、人間としてあるべき生き方ではないか、とお示しなのである。
 「今はそんな時ではない」「そんな場合じゃない」と厳しくお戒めをいただいている。仕事や子育てが一段落した人でも、趣味や旅行に興じている場合ではない。仕事や家事に追われる世代の人も、この時だからこそ、生命力や影響力を駆使して、危機が身近に迫りつつある世界のために益ある生き方を実践すべきなのである。
 リラックスしているだけでは、人生の大義を失う。人生の目標を見失っているのに、趣味や風流ではない。仕事も中途半端、家庭の中でも結局は浮いてしまう。
 人間の本業を菩薩行と感得するまでには大きな壁がある。しかし、今や悠長に待っている時間はない。人は、御仏の教えに沿う生き方を損だと思い、自分の欲望を満たすことに努力するのを得だと思って生きている。しかし、ある時点で、生き方に於ける「損益分岐点」を迎える。人のために生きる菩薩としての生き方こそ得と思い、自己の満足を追求するだけの生き方は結果的に損になると、損益分岐点が訪れるはずだ。み教えに従い、功徳を積み、ご奉公させていただくことを喜べるようになる。そうして、お祖師さまの教えをいただいた本当のご信者となるのである。
 スリランカ青年会のディリーパ君は十九才。インタビューの中で、彼は自分にとって最大の御利益が菩薩行に励めるようになったことだと語った。損益分岐点を迎えた人間こそ最上の御利益を感得した人間だと声高らかに教えてくれる。
 『僕はディリーパといいます。 体験談ですが、それは僕の人生そのものが御題目口唱を通じていただいた御利益だと思っています。僕が思う一番大切で、価値のある御利益とは、「広宣流布」のご弘通ご奉公をさせていただける機会に恵まれたということです。それが僕の御利益談です。
 いま、スリランカは内戦状態が続いています。僕は、今の世界にとって一番大切なことは「平和」だと思います。私たちは御法さま、御題目を通じて世界の平和を実現すべきだろうと思います。世界中に御題目を弘めることは僕たちの義務で、御題目が弘まることで、僕たちも助かり、世界の平和も、確立できるのだと思っています。ありがとうございます』
 私たちは彼のように思えているだろうか。彼の言葉、生き方こそ、お祖師さまの教えられた生き方で、今こそ私たちも始めるべき生き方である。
 お祖師さまの御妙判
『未来永永の楽しみは、かつがつ心を養ふとも、強いてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。「三界は安きこと無し なお火宅の如し」は如来の教へ、「ゆえに諸法は幻(まぼろし)の如し 化の如し」は菩薩の詞(ことば)なり。寂光の都ならずば、何(いづ)くもみな苦しみなるべし。本覚のすみかを離れて何事か楽しみなるべき。 願くは「現世安穏 後生善処」の妙法を持つのみこそ。ただ今生の名聞、後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と、我も唱へ他をも勧んのみこそ、今生人界の思い出なるべき。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』
 今こそ、人と世界の損益分岐点ではないか。

妙深寺報 12月号

 妙深寺報の12月号が完成した。ありがたーい。
 でも、今ごろ「完成」というのは申し訳ないこと。本当は1日に間に合わなかった。トホホ。
 妙深寺では、先住松風院日爽上人からの伝統で、寺報は義納金を納められているご信者宅に全て行き渡るようにとご奉公させていただいている。妙深寺の義納金(ご信者の義務としてお寺に奉納するもの。妙深寺では500円。その他は随喜納金と言って、それぞれの随意・随喜によって奉納いただく)からしたら、一部100円ちょっとする寺報だから高い。でも、先住ご遷化後、特に力を入れて製作しているのが現在の「妙深寺報」だ。
 これにはコンセプトがある。「ご信者さんの数だけヒーローがいる」をモットーとして、とにかく住職や教務は背後に回ってご信者さんの声を前面に出す。読んでいただきたい人も、「いま、お寺に対して斜に構えておられる方」「現在のご信者さんの次の世代の方」と想定している。なかなか、分かりやすい文章などは書けないのだが、「一から始める佛立信心」と「今さら聞けない佛立信心」と考えれば、こうしたコンセプトは誰にとっても有難いことだと思う。住職や教務の写真をたくさん載せていても閉じられちゃうし、難しい文章や「こうしなさい」ということを並べても掴めないと思うし。御有志された方々のお名前なども載せていない。
 こうして考えるとユルユルのように思われるかも知れないが、妙深寺には毎月1日にこの「妙深寺報」とは別に「役中テキスト」を発行している。この役中テキストというのは、お寺でご奉公してくださるようになった方々に対して発行しているもので、この中にご弘通ご奉公の方向性や御有志についての詳細なご披露をするようにしている。私の「班長さん ありがとうございます」という文章もここに掲載している。
 この他、御講附(「おこうづけ」と読む。特殊用語だから、また先生にお漬け物と間違われそうだけど)という各教区毎に毎月の御講席日程を掲載するプリントがある。受持御講師によっては御講附の裏面を使って「受持通信」をされている方もいる。
 いずれにしても、コミュニケーションが大事だと思う。御宝前の間の奥に厳かに置かれている冊子などもいいが、「妙深寺報」はリビングやキッチンにでも置いてもらいたい。とにかく、読んでいただきたいのだ。僕の文章もへたくそだし、いつも同じようなことを書いていると思われるかも知れないが、お許しいただいて、ご信者さんの「菩薩の声」を読んでいただきたい。
 それと、もう一つ。私は、日博上人が昭和20年代から発行されていた「一実」という新聞を事細かく読ませていただいた。清水泉洋師が現存する一実を本にまとめておいてくださったから、50年後の私たちにも読むことができる。それを読んでいると、あの当時の佛立宗、妙深寺、日博上人のご奉公ぶりが頭の中に浮かんでくる。その情熱、その想い、そのご奉公の有難さを感じることが出来るのだ。50年経っても色あせていない。
 日博上人は、50年後の教務さんが、こんなに「一実」を読んでいるのをどのように思われているだろう。発刊のご奉公をされている当時は、そんなことは思いもよらなかったかもしれないが、現実、私たちは何度も何度も読み返して、自分のご奉公に活かすことが出来ている。
 だから、私たちの妙深寺報は、現在の妙深寺のご信者に対してだけ発刊しているのではないと思う。今の寺報は1ヶ月もしたら「先月の寺報」ということで片隅に追いやられてしまうかもしれない。そう考えれば贅沢だし、こんなに一生懸命作らなくてもいいのではないかと思われるかも知れない。しかし、そうではない。きっと、きっと、何年後か、10年、20年、30年、40年、50年後の人たちが、僕たちが一実を読み返しているように読んでくれるかもしれない。一生懸命ご奉公して、一生懸命やっていたら、必ずそういう日が来ると思う。そのためにも、手を抜くことはできない。頑張って、頑張って、贅沢で、ちょっと素敵な寺報を発行している。

2008年12月2日火曜日

御法門は眼で聴聞すること

 一言。

 御法門は「耳で聞く」のではない。「眼」で聴聞するものだ。目を閉じて御法門を聴聞できると思ってはいけない。

いよいよ12月

 いよいよ12月に入った。慌ただしい月が始まる。

 月末は原稿の執筆や月始総講の準備など、デスクワークが山積する。また、週末が重なったために、妙深寺内外のご奉公もあり、心の準備もないまま師走を迎えてしまった。12月は一年の締め括り。心の大掃除の月。心して過密なスケジュールを乗り越えていかなければならない。

 12月1日は、月始総講の後で教務会。19時過ぎまで会議は続き、来年度のご奉公の詰め、方向性などを話し合っていた。来年も有意義な一年とするために、重要な話し合いだったと思う。

 2日からは京都でのご奉公。窓の外から大文字が見え、綺麗な紅葉が文字の周りを彩っていた。朝10時からロス・アンジェルスとウェブ会議、16時半から韓国とのウェブ会議、19時からは九州とのウェブ会議。たった一日の中で、インターネットを活用して各国・各地域とお話が出来るとは。ご奉公も充実してくる。それぞれの地域でのご奉公を集約して、意見交換し、本当のご奉公サポートもできる。

 姜ご住職のお顔も久しぶりに拝見できたし、本当に有難かった。

2008年12月1日月曜日

班長さんへの手紙

 平成二十年も、あと1ヶ月。気持ちよく、晴れ晴れと新年を迎えるために、心の大掃除、しっかりと一年を振り返りましょう。厳しい時代です。臨戦態勢で挑むべき時です。準備を怠っていれば年も越せず、来年の一年間も良い年にはならないでしょう。今すべき最大の努力は、心の柱であるご信心の立て直し、確認、再チェックです。それが、お懺悔です。柱がしっかりしていれば、台風が来ても家は倒れません。

御教歌
「これでわれ よしと思へばおこたらん 信は忘るゝまなくつとめよ」

 「信」の有無、しっかりしているか、していないかは、想像以上に生活全般にわたって影響します。「信」を心の機能だとしますと、これはナマモノのように直ぐに変化したり、衰えてしまったりします。ですから、日々に磨く、日々に「つとめる」ことをしなければなりません。それが心の柱、「信」ですから。

開導聖人の御指南には、
「信の一字を詮となす。されば修行の中にて信の一字、所願成就も浄土参拝も信也。商売繁盛も信也。当病平癒も信也。寿命長久も信也。厄災消除も信也。信心を本(もと)とす。末代の凡夫、信よりたのみなし。信とは行也。行とは口唱也」

とお示しです。日々の口唱を決して怠らずに、毎日を過ごしてきたか。忙しさを理由にして、自分の気持ちを優先して、する時としない時があるようではいけなかった。これが信心であり、改良のポイントであり、これを教えるのが育成です。

御教歌
「朝夕のつとめは家のいのりなり いそがしくても これはやめるな」

 家の祈りですから、自分を含めた家族が、厳しい社会情勢の中にあっても、お見守りとお導きがいただけるように、家の御宝前での朝夕のお看経は欠かすな、とお示しなのです。まず、御本尊のご奉安が第一。お寺にお参詣してるから家ではお看経しないのはいけない。五分でもいいから、家での朝夕お看経を止めてはいけません。今年一年を振り返り、来年こそ「三百六十五日、欠かさぬ家の祈り」を実践しましょう。

 新しいご奉公の体制も各教区や部で整えていただいたことと思います。御宝前からいただく辞令の下附も十二月中にございます。

 ご奉公は、「続ける」ことが第一です。何事も続かない、気まぐれな、場当たりなことは、「ご奉公」とはいえず、功徳に薄く、罪障の消滅はできません。コツコツと続けることが大切です。辞令を拝受された方は、お看経をたくさんいただいて、コツコツとまごころでご奉公を「続けて」いただきたい。

御教歌
「をこたりの心のよごれあらはんと おもはゞせめてみとせつとめよ」

 今まで怠っていた、罪障が深いと自覚して、「よし、ご奉公させていただこう」と思えたのならば、「せめて三年(みとせ)はつとめてごらんなさい」とお示しです。そのくらいの期間、長い考え方、スタンスで、ご奉公とはさせていただくものです。各お役中の任期は、三年よりも短いのですが、辞令下附の月ですから、心得として胸に置き、このテキストを読んでいない新役中の方々には住職の言葉を申し伝えてください。

 妙深寺の全信徒が無事に越年迎春し、来年もたくさんの御利益に包まれて、お寺全体が、明るく、楽しく、菩薩の心で満ちますように。立正安国論上奏七五〇年の厳しい年を迎える直前に、心を引き締めてまいりましょう。

秋に咲く桜

  今日はお祖師さまの祥月ご命日。法華経の行者、法華経を生きた、法華経そのもののご生涯、その凄さ、凄まじさ、優しさ、思いやり、大慈大悲。 行動力、忍耐力、不屈、情熱、慈悲深さ。同じ人間であることが本当にありがたい。人間の可能性をお示しくださいました。私たちもそのように生きたい。生...