2008年11月4日火曜日

『仏教』から『仏道』へ

 日博上人は、吉川英治の「宮本武蔵」が大好きだったと学生の頃から聞いていた。

 しかし、一時代前の感があり、「吉川英治より司馬遼太郎」「宮本武蔵よりは坂本龍馬」と考えて、なかなか読もうとはしなかった。ただ、日博上人は「宮本武蔵」のどの部分に感銘を受けておられたのだろうと、常に気になっていた。夏の終わり、ついに読んでみようと決心し、文庫八巻を手に入れた。「なるほど、ここか」と感ずる所があった。

 それは、単に無敵の剣士、武蔵の生涯を描いたものではなかった。NHKの大河ドラマを観ていた方などは「何を今さら」と思うかもしれないが、私にとっては新鮮な感動があった。武蔵は悩み続けていたのである。悩みに悩み、苦悩しながら、道を歩んでいた。自己を磨き、到達し得る境涯に向けて、剣という道を歩んでいたのだった。

 物語ではこう語られる。

「武蔵は、剣におぼろげな理想を抱き始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い。といわれたところで何になろう。剣そのものが単に、人より自分が強いということだけでは彼はさびしい。彼の気持ちは満ち足りなかった。一、二年前から、彼は、人に勝つ。剣から進んで、剣を道とし、おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。『まことに剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生かすことができない筈はない』と、殺の反対を考え、『よし、おれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を按じ、経国の本を示してみせよう』と思い立ったのである。」 

私は、この文に強く感銘した。

 史実とは異なるかも知れないが、この小説の中の武蔵は、あくまで得体の知れない何かを目指して、己と戦い、己を磨いていく。

 戦国時代から江戸の初期の話で、血なまぐさい場面も多い。命がけの勝負、相手を斬る、果たし合い、道場破り、武者修行の旅が続く。しかし、武蔵は他の剣術家と違い、その武者修行の中で気づいていく。「剣術」ではダメだ、同じ剣でも「剣道」でなければならない、と。使い古された言葉のように思うかもしれないが、この意味は深い。武蔵は、単に剣の「術」を磨くのではなく、剣を通じて、己を磨き、人間性を高め、人間としての器量を育てて、より高い次元へと向上させていく「道」を歩んでいた。

 だから、彼は決死の試合に挑み、勝ったとしても誇ることもなく、また苦悩する姿が描かれている。こうした姿に、きっと日博上人は感銘を受けたに違いない。

 日博上人は、苦悩しつつも道を歩み続け、自己を高めようとする姿に、「仏道」を歩む自身を重ねておられたのではあるまいか。

 武蔵が「剣術」ではなく「剣道」を求めたように、「仏教」は「仏道」でなければならない。同じ仏教徒であっても、自己を省みることもなく、人間性の向上に無関心では、「仏教」は時々聞く良い話でしかない。万法具足の御本尊に向かい、上行所伝の御題目をお唱えすれば必ず御利益を頂戴する。しかし、単に凡夫の欲を御法さまに御願いするだけの信心でいいか。欲する時にだけ顔を出し、必要な時だけ「お寺さん、よろしく」が仏教であろうか。声を掛けられた時だけお寺に行くような信心でいいはずがない。

 仏の教えを、我が身、我が心、我が人生に組み入れて、「仏道」を歩んでいこう。必ず、自分の人生の視界は広がり、人間性は向上し、人に愛され、敬われる人となれる。

「道は暫くも離るべからず。離るべきは道にあらず」

 悩んでもいい、迷ってもいい、自分が嫌いになる時もあるだろう。自分の浅はかさ、愚かさに気づくこともある。しかし、それらは、御仏の教えの下で、自分の今までの殻を破るための苦悩とすべきだ。

 そうした人生の苦悩の果てに、仏道修行をした者だけに得られる境涯がある。結果がある。果報がある。

 武蔵が苦悩しながら歩む姿に、勇気づけられ、仏道修行の本質に気づかせていただくことができる。日博上人は、一代で妙深寺の礎を築かれたご奉公の中で、どれほど苦悩されたか分からない。しかし、その苦悩こそ、御仏やお祖師さま、先師上人の歩まれた仏道であり、全ての人が歩むべき道であった。どうしたら、一人でも多くの人が功徳を積む生き方に目覚め、罪障を消滅し、現証の御利益を感得することができるか、御題目を唱え、御宝前に問いながら歩まれた道であっただろう。

「鍛はぬ金はさかんなる火に入れば疾とけ候。氷を湯に入がごとし。剣なんどは大火に入れども暫はとけず。是きたへる故なり」

 お祖師さまは、仏道を通して、自己の性格や器量を省みて改良し、困難なことに出遭っても、自己を鍛える機会と捉えて、歩み続けよとお諭しくだされている。

 仕事や人間関係のトラブルも、貧しさも、自分や家族の病気も、確固たる信心を掴み、人間の本業に目覚め、より良い人生を歩んでゆくためのこの上ない機会とする。

「病貧等の苦も、此の信心起らば、仏道修行の発心者の為には数にもあらぬ娑婆三宅の夢中の苦也」
と、開導聖人は御指南されている。

 険しい道でも恐れることはない。「剣道」ではなく「仏道」である。怖いものなどない。乗り越えられない壁はない。剣の道より幅広く、誰もが容易に道を歩んで、結果を手に出来るはずだ。

 「仏道」という意識がなければ、信心をしていても、自己中心的な、小さく、偏った人間のままになってしまう。 

御教歌
 「まけん気と根気と慈悲のある人は みのり弘むる 器なりけり」

 自分の人間性の中で、この三つをバランスよく育てたいものだ。 

別の御教歌に、
 「こゝろせよ 自屈 上慢 二乗心 これは信者の 中のかすなり」

 二首の御教歌は何度拝見しても有難い。凡夫根性のままでいたら、何でも自分から屈する人、慢心者、自分のことしか考えない人になる。時折、これらがバランスよく配合されている人がいるから恐ろしい。ご信者の中でもご信者とは言えぬ不純物であると厳しくお戒めなのである。

 苦しんでも、悩んでいてもいい。仏道を歩み、人間を磨いてゆこう。

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