2012年12月15日土曜日

宗教と科学

新幹線の窓から見下ろした東京。たくさんの家です。

いま長野へ向かっています。この前の大雪。信濃町の岡田さん、大変だったと思います。雪に慣れておられるとはいえ心配です。

今朝、家を出る前に母上と選挙について話をしました。期日前投票に行ってくれるようです。でも、どこの誰に入れていいか分かりませんよね。

各党の主張、似ているようで似ていない。ここは賛成、ここは反対。そんなものですね。

政治とは利害の異なる事案や立場の異なる人々の間にあって、折り合いをつけることだと言うことも出来ます。全員の利害が全て一致するなんて、なかなかありません。

そう考えると「多様化」と言われる世の中で政党が乱立するのも至極当然のことのように思われます。決められない政治にしているのが僕たち自身のわがままさもありますね。

それでも、各党の主張を見聞きすると、本当に異なる問題の捉え方、解決方法、治療法があるものだと変に感心してしまいます。これを政治理念というのか政策と言うのか分かりませんが、そもそも客観的なはずの問題やその原因もはっきりしない。はっきりさせないのかな?

昔、宗教が現実を覆い隠していた時代がありました。宗教が客観的な現実を見えにくくしていたのですね。そこに登場したのが自然科学というもので、それがもたらした「誰がどう見ても同じ結果に至る」という「普遍的な真実」に対して誰もが陶酔しました。宗教的な教義や権威に代わって人々に一つの真実を教えてくれるのですから、これはすごいことだったのです。

現在でも科学は発展しています。山中教授のノーベル賞の受賞ほど喜ばしいことはありません。しかし、一方で、いま、科学は、いや科学者たちは、普遍的な真実、客観的な事実を、僕たちに示してくれているでしょうか?

放射性物質の人体への影響、原子力発電について、活断層について、金融政策、経済・財政政策、それぞれの科学者のグループも乱立して、毎日膨大な学術論文が発表されているのと同じくらい飽和してる。真実を理解する上でも、生命を守るためにも、役に立っていません。

さらに、昔、宗教は政治権力や資本家と結びついて、その価値を失墜させ、堕落しました。教義を曲げ、そこに従事する者たちも、ある者は地位を得るために、ある者は食べてゆくために、使命を忘れて政治や資本家を支えるツールになり果てた時代もありました。

果たして、私は科学も科学者たちも、これと同じ轍を踏んでいるように思います。真実がない。分からない。どうでしょうか。

宗教にしても、科学にしても、やはり人です。学説は異なるにしても、本当に、無私に、志を忘れず、権力にも媚びず、夢を持ち、現場主義に徹して日夜励んでいる人の行動の中に真実があるはずです。

極めて凶悪で残忍な殺人犯にも、彼なりの「正当な主張」があることを忘れてはなりません。これを忘れると、真実にたどり着けません。

長野に向かう新幹線の中で、またこんなことを書いてしまった(汗)。もう軽井沢です。頭を休めたいのにー(涙)。

南無妙法蓮華経、、、、。移動中でも、考えるのではなく、お看経させていただかなければなりませんね。申し訳ありません。

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