理想のお寺。
そこに少しでも近づきたい。
生きたお寺。
本堂に御法さまがおられるからこそ、私たちは真っ正面から人や家族と向き合い、罪障を消滅する道、功徳を積む道へと向かいたい。
先日、また大きなお懺悔の言上をさせていただきました。
入れ墨を背負い、極道を生きて来た方のお懺悔。恐喝から傷害、覚醒剤使用と、少年院と刑務所にそれぞれ三回入ってきたとのこと。
新年早々二人で話し合いました。
二十年前に暴力団から足を洗い、覚醒剤も断って生きてきましたが、母親の葬儀で親戚から言われた「お前が殺したんだ!」という言葉が頭から離れず、苦しくて仕方がない、と教えてくれました。
お懺悔させていただこう、罪障消滅の道を歩もう、やり直そう、やり直せる、と語り合いました。
先日の朝、彼は寒参詣中の満座の本堂で一番前に座り、私は彼の書いたお懺悔文を言上させていただきました。赤裸々に自身の半生を振り返り、結びには新たな誓いが記されていました。
「本日、改めてしっかりと、これらのことをお懺悔させていただき、御住職並びにお受持の清康師のご教導に従いながら、反省を重ね、もう二度とやくざとはつきあいもしない、覚醒剤などにも決して手を出さない、犯罪行為には決して手を染めないなど、決して同じ過ちは繰り返さないようにすること、被害を受けた方々に心からのお詫びの気持ちを込めてお看経をさせていただくこと、また罪障消滅のためには、ご信心、ご奉公しかないと胸に刻んで、菩薩の誓いを立て、佛立信者としての生き方に励むことを、お誓い申し上げます。
平成二十七年一月十九日
上」
もちろん、このお懺悔は終わりではなく始まりです。ここからが本番です。ようやく始まりました。罪障消滅と定業能転を願う人生の始まりです。
私が有難いと思うのは、ご信者のみなさまの温かい心、妙深寺に溢れる空気です。お懺悔される方を変な目で見るような人はいない。むしろ、慈悲の心で見守ってくださっています。本当にありがたく思っております。
「懺悔は人を教化するの功徳あり」
ヤクザだった人も、佛立菩薩になれることを、証明してほしい。生き直せることを示してほしい。
みんな、ギリギリです。
菩薩にもなれば、鬼にもなる、三毒強盛の凡夫です。業も深いし、罪障もある。欲望も果てしない。
だからこそ、ご信心に出会って、曲がっていること、間違っていたことに気づいて、懺悔改良できることが救いなのです。
ご信心、ご奉公しているつもりでも、実は自分だけの世界にいて、心底から欲深く、いつまでも斜に構えたままで、素直さも正直さも無く、常にひがみ、常にねたみ、功徳どころか罪障を積んでいる人もいるのです。
ご信心しているだけで、全部がオッケーなんて決してありません。そうでなければ、あれほど多くの御指南は必要ありません。
みんながお折伏を心がけ、改良できるお寺。
心の洗濯所。
心の寄港地。
それが、目標とする、お寺です。
「私は間違っていない」と、懺悔の心のない人、そういう我が非を知ることの出来ない人が罪深い、本当に罪障の深い人なのです。
「懺悔は起信のスガタ也」
どんなに悪いことをしていても、お懺悔したらお手本です。
お懺悔が出来ない。
お懺悔がさせられない。
真剣のお折伏もなく、お懺悔もないなんて本門佛立宗の寺院ではありません。
私たちは理想のお寺を目指して、少しでもその理想に近づくように、御法さまを中心に、教えに素直に、常に真剣のお折伏が出来るように御題目で心を磨いておくのです。
スポーツジムには前向きな空気があります。その理由は、そこに集う人が、年齢も仕事も健康状態も違いながら、どんな人であっても健康を目指しているからです。
実に、生きたお寺にはさまざまな人が集います。健康で、前向きな人もいれば、ご病気の方、心に深い傷を負った方もおられます。老若男女、裕福な方もいればお金に困窮されている方もおられます。
しかし、そこに集う人びとは、誰もが罪障を自覚し、その消滅を願い、功徳を積ませていただこう、強く、明るく、正しく生きようと努力しています。そして、それを支えようという人びとが集まっているはずです。それが生きた仏教をいただくお寺です。
いくら美しい写真が載っていても去年のカレンダーは使えません。仏教も同じです。生きているお寺でなければダメなのです。ここに来れば、この世の中に、人生に、仏教という希望があることを知ることができる。それがお寺です。
観客ではなく、参加者になる。
聴く人ではなく、唱える人になる。
評論家ではなく、実践する人になる。
ファンではなく、自ら選手になる。
自分のことだけでなく、他の人のことを考える人、他の人の幸せを願う人になる。
「如説修行抄をハナツコトナカレ」
こう記された御指南があります。
「この書は門外不出、貸すことは許さない。志ある者は来て写すがいい」
開導聖人はそう前置きされて、
「例えば寺あり、何の為に建てたるや」
「如説修行抄あり、何の為の御著述ぞや」
「佛立講、何の為に立てたるぞや」
「講中何の為に妙法を護持するや」
「宥清寺、何の為ぞや」
「親会場、何の為ぞや」
とお示しになられ、「何のために」を常々に自問自答して、佛立寺院らしく、佛立信徒らしくあれ、と励ましておられます。この気概、この情熱が、あるか、ないかです。
開導聖人からお褒めいただけるお寺であるように、理想のお寺を目指して精進させていただきます。
「こんなお寺があったんだ」
お寺との出会いが喜びになる。佛立寺院の有難さを伝えたいです。
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