師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ
夕方、18の頃からお世話になっている方にお時間をいただいて、保土ヶ谷区の喫茶店でお話をしていました。
まさに、開導聖人の、この御教歌を思い浮かべて、自分の弱さや甘さと向き合うことが出来ました。
師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ
この世界は、大きな実験場、実験材料は自分。
どこまで行くの。
どこで終わり?
なぜ思い込むのか、なぜ調子に乗るのか、なぜ偏るのか、なぜ寂しくて、なぜ苛立って、なぜ迷うのか。
うっかりしてたら、終わってしまう。
仏教、ご信心、もっと厳しいものだと思う。
ご信心という輪の中で、ただ甘えてしまう人もいると思う。
「ために」という言葉は、漢字にしてにんべんをつけたら、「偽」になるんだ。
「みんなのために」「彼らのために」「被災地のために」「虐待された子どもたちのために」と言っている、その中の、中に、突き詰めて、甘えがないか、調子に乗ってないか、本気か、本当か、何が出来ているのか、何をしているのか、言葉に酔っていないか、聞いて感心しているだけじゃないのか、結局、何もしていないし、何も出来ていないんじゃないか、ということを、突き詰めなきゃいけない。
そう、思うのです。
「〜のために」ばかり使う人間が、「偽」や「偽善者」と呼ばれるくらいに、厳しく僕たちを自戒して。
難しいよ。
当然。
簡単じゃない。
いっぱいあるんだ、進めば進むほど。
小学生には小学生の問題、中学生には中学生の、高校生には高校生、大学生には大学生の問題があるから。
原典、法華経の如来寿量品には、次のような仏陀のお言葉があります。
「常に我を見るを以ての故に 而も驕恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん」
いつも、見ていると、分からなくなるということです。
だから、ご信心していても、単なる依存体質ではダメ。
ダメだと思うよ。
もちろん、病気の人に重たい荷物を背負わせない、重たかったら、僕が背負う、でも、少しでも体力が回復したならね、自分で背負わなきゃいけない。
それが、人生だから。
生きるということは、そういうことなの。
重たい。
修業の場所、修業の時です。
でも、だからこそ、楽しいよね。
結果ばかりを、簡単に見るのではなくて、答えを、あっという間に手に入れるのではなくて、その結果や答えを導き出すプロセスにこそフォーカスして、自分を練り直さないと。
ご信心している場所がぬるま湯になって、ご信心しているから甘えて、ご信心しているから、だらしない、ゆるい、客観性を失うなんて、本末転倒甚だしいのだから。
南無妙法蓮華経。
ご信心の尊い意味を、示すのも、ダメにするのも、僕たち次第です。
「いつも、私を見ているからといって、慢心して、むしろ好き放題、さらに欲深くなって、悪い道に行く者がいるよ」
そう、法華経に、仏陀釈尊のお言葉で、そう説かれてしまっているのだから、降参しないといけません。
そうではないですか?
そうじゃないかしら?
「僕はご信心してる」
「いつでもお寺に行ける」
「お看経しようと思ったらいつでも出来る」
なんて、思っていると、危ない。
教務も、誰でも、つくづく、慢心しないで、本当の意味を、掘り下げないと。
師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ
ぼくは、今日も、コテンパンにしていただいて、ありがたかったです。
朝から、妙深寺の全部の部屋が会議でいっぱいで、最高でした。
追求します、何もかも。
カルチャーコーディネーターじゃ、ダメだ。
1 件のコメント:
修行は、正しくは修業とかくことを教えられました。
「聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥」と申します。お尋ねしてよかった。
ありがとうございます。
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