2015年10月22日木曜日

海援隊『閑愁録』の要旨と長松清風の見解


海援隊『閑愁録』の要旨と長松清風の見解
長松清潤

この度、テレビ朝日系列で放送されている人気番組『ぶっちゃけ寺』で、坂本龍馬と仏教の関係がテーマに取り上げられ、そこに拙著『仏教徒 坂本龍馬』でほぼ初めて紹介した海援隊蔵版『閑愁録』にもスポットが当たることになりました。

とても有難いことで、喜んでおります。

ただ、ゴールデンタイムの全国放送という壁は高く、昨日はナレーションの原稿を読ませていただきましたが、大切なこと、開導聖人や本山宥清寺のことまではたどり着けていないようです。重ねて、テロップでの紹介などをお願いしましたが、期待する内容にならないかもしれません(汗)。

申し訳ありませんー。

長松寺や私が出るだけでは大切なことが伝わりません。

やはり、『仏教徒 坂本龍馬』の執筆理由や論点と同じことですが、大切なことは幕末・維新の仏教改革者である長松清風の存在意義、「明治維新」の実相を知り、共に仏教の再興を目指そうということまで、お伝えしたいのですが、難しいものです。

しかし、「海援隊蔵版」と明記して出版された『閑愁録』が、仏教への期待を示し、僧侶の堕落を批判し、真実の仏弟子の奮起を促している書であることは、間違いなく、疑いもありません。

史実であり、事実です。

そして、それを受け止める、それに応える資格があったのは、後に幕末・維新の仏教改革者と呼ばれた「長松清風」以外にいませんでした。

この、「資格」という点は、長松清風が大混乱の時代の真っ只中で、本門佛立講を開講して、生きた仏教を説き、仏教を民衆の手に返した功績が燦然と輝いているからです。

ほとんど読まれることがないので、海援隊の『閑愁録』の本文、その要点を紹介させてください。

『閑愁録』
「昔者(むかし)空海大師、本地垂跡(ほんじすいじゃく)の説を立て、法然上人、他力往生を許す。実(じつ)に活眼卓識と謂(い)ふべし。今此(この)両高僧、再び世に出(いづ)る時は、必(かならず)一種、人情・時世に合(かない)たる、甚深(じんじん)不可思議の法教を垂(た)れ、滔々(とうとう)たる末俗の迷津(めいしん)を救済(きゅうさい)すべし。

我窃(ひそ)かに方今の僧徒を見るに、多くは皆甘じて天下の遊民となり果て、囲碁(いご)詩歌(しいか)點茶(てんちゃ)挿花(そうか)酒女に耽溺(たんでき)し、間々(まま)戒律を奉じ、奇特の清僧有るも、自ら世外の者と観念し、政教一致の事に心を用ひず。

仏法は国家を保護する大威力を具足せる大活法なるをしらず。

縦(たと)ひ是(これ)をしるも、亦(また)唯(ただ)、政法に束縛せられ、己れが手腕を伸す事能はず。誠に嘆息すべし。

(中略)

且つ仏法の我邦(わがくに)に入しより、茲(ここ)に二千年、皇化を保護し今日に到る。其(その)効勲、爀々(かくかく)見るべし。

故に仏法は天竺の仏法とのみ言べからず。乃(すなわち)皇国の仏法なり。

(中略)

嗟呼(ああ)如何(いかん)せん、仏日滅没の時、既に到れり。佛日の滅没は皇道の衰運に係(かか)る。是(これ)実(じつ)に誰が罪ぞや、是実に誰が罪ぞや。

此に卑見を録して謹(つつしみ)て明識高徳の指示を待つ。希(ねがわ)くは天下萬霊の為に、慈悲の法教を垂れよ。」

《現代語訳》
「昔、空海・弘法大師はあらゆる神や仏は大日如来の慈悲の現れであるとする本地垂迹の教えを立て、法然上人は阿弥陀仏の他力によって悪人も救済されて極楽に往くと説いた。こうした教えを伝えたことは法然や空海の実に卓抜した智慧や知識があったからであろう。今この両高僧のような人物が再び世に現れれば、必ず一つの人情やこの時代に適した深甚かつ妙不可思議の仏法・仏教を説き示し、よどみなく末法悪世の人々の迷信を晴らし、救済するに違いない。

(中略)

しかし、私が今日まで見てきた昨今の僧侶の多くは、みな遊んで暮らす者になり果てている。彼らは囲碁や漢詩、古歌・茶道や華道、はては遊女と酒を酌み交わすようなことに耽り、溺れている。時には戒律を守る殊勝な僧侶もいるが、彼らも世間で起きていることは自分には関係ないと諦めて、政治と宗教が人々を救うということに心を用いることがない。

彼らは、仏法が国家を護るために大いなる威力を具え、大いなる活きた法であることを知らない。

たとえこのことを知っている者がいたとしても、ただ現在の政治や法律、団体の規律に縛られて、自分が持っている手腕を伸ばし、本来の使命を果たすことが出来ないでいる。誠に残念であり、ため息しか出ない。

(中略)

また、仏教は我が国に伝わってから約二千年間、天皇家を保持して今日に至っている。その効果や功績は赤々と照り輝いて見えるであろう。

だからこそ、仏法はインドの仏法とのみ言うべきではない。つまり、日本国の仏法なのである。

(中略)

あぁ、どのようにすべきであろうか。仏法の滅亡や没落は、日本の命運に関係しているのだ。これは実に誰の罪であろうか。これは実に誰の罪であろうか。ここに、私たちの意見を呈し、心ある徳の高い僧の指示を待つこととする。

どうか、天下のありとあらゆる人々のために、慈悲に溢れた仏の教えを与えよ。」

龍馬存命中、暗殺の半年前に海援隊が出版した『閑愁録』。これを手にして絶賛し、見解を述べたのが長松清風日扇聖人でした。

《原文》
「清風此に篇の所詮を見るに、
閑愁録云、
○人情時世に合(かな)ひたる甚深不可思議の法教を垂れよ、
○天竺のみの仏法に非ず。皇国の仏法なり、
天下の乱れは、仏法のみだれより起こるの説、宗祖の安国論の御説に合す、
○仏日将に滅没せんとす云々 
されば大法弘通せん僧を大師とも上人
  └弘法 └法然
とも称歎すべきなり
活眼卓識と云々
死人より外に用なき僧侶 次に
愚僧  懦僧     不学僧を、さして
└アホ └ヤクニタヽズ └モノシラズ
宗門の證印。寺請 寺送等に付
死者 葬法 回向 施餓鬼等の旧政に付 安じて 常に弘通の志なき故にもの学びせず
圍碁 詩歌 茶 花 酒 女 等に
耽(たん)   溺(でき)
└タノシミミダレ └オボレ 心ガ、ハマリテ、アガル事ガ、ナラヌヲ云
護法の志なき僧侶を
大罪 尤悪 外道 蝗蟲 仏敵 国敵等、呵責したり。

されば、末世下根の凡夫、未起道念の幼少より、出家して、畢生信と云ことを知らざるに至らん。形ちのみの僧等三宝の大恩を蒙りて、大寺大山に住持するは、何れの徳ありと云や。思ひしれ。旧政にのみはてんや、思ひしれとの呵責也。

歎息して曰、嗟呼衰たり、吾仏法。

宗祖は、始め往還大道の辻説法より天下を諫暁し、一切を誘導して信行の者も所々国々ニ出来せり。

故に小菴も、大寺伽藍となれり。故に高座説法となり、学寮も出来す。

方今は教導なき故に、旦越は他宗にうつり、信者、日々月々に減損す。故に寄附勧財等、少しも集らず、学文所あれ共、素読だにも教へざれば学ぶ者もなし。故に法門をしるものもなし。

只 死者 葬法 旧政に安じて、大法弘通の道ふさがりて、一人として通ふ者もなし。仏日まさに滅せんとす。いかにせば、此道をもとの如くに開かんとなげく。故に此比「呵惰醒酔論一巻」を著せり。此書には、門流の要学の筋を教へたり。所詮下根下機の時世なれば、せめて、たにもとて誌せりセリ。上の二書に説亦暗合するもの也。」

《現代語訳》
「清風、この二つの結論を見て、
閑愁録が指摘している、
○人情、時世に適合した甚だ深い妙不可思議の仏法の教えを説き明かせ。
○インドの仏法ではない。この皇国・日本の仏法である。
これら「天下の乱れは仏法の乱れから起こっている」という説は、宗祖・日蓮聖人が立正安国論で説いた論旨に合致する。
○まさに仏法が滅亡し、埋没しようとしている、と。
故に、そのような時に大法を弘め通わそうとする僧を、大師(弘法)とも上人(法然)とも誉め称えるのである。

死んだ人にしか使いようのない僧侶。

次には愚僧、儒僧、不学僧に対して、各宗門はそれらを認める証明書を出して、寺請や寺送などについて宗門の施策を以て死者の葬儀や施餓鬼などの回向によってその地位を保障するので、囲碁や詩歌や茶歌道や酒や女などに耽り溺れる。仏法を護る志のない僧侶を指して、大罪、悪人、異教徒(道に外れた者)、すべてを食い尽くすイナゴ、ブッダの敵、国の敵と厳しく咎めた。

しかるに、末法悪世の凡夫は、未だ道心の起きていない幼い頃に出家して、死ぬまでには信心が起きるだろうと言う。形だけ僧侶になって三宝の大きな恩を蒙り、大きな寺などに住むのは、一体彼らに何の徳があるというのか。思い知れ、彼らは宗門の行政のみに命を使うだろう、思い知れ、と厳しく咎めている。

ため息をつきながら言えば、あぁ衰えてしまった、私たちの仏法よ。

我が日蓮聖人もはじめ街頭に立って辻説法から天下に対して仏法の誤りを諫め諭した。こうして多くの人が誘われ、信心修行する者も全国各地に生まれたのである。

そして、小さな庵は大きな寺院や堂社となり、高い座から説法できるようにもなり、学寮などの施設も出来たのである。今や本当の教導が無いために、檀信徒は他の宗派や信仰へ移り、信者は日々月々に少なくなっている。そして、寄附や財の有志等は少しも集まらなくなっている。

ただ、死者の葬儀や宗門行政をしていることに安心して、この尊い仏法を弘通する道が途絶え、一人として精進している者がない。確かに仏法は滅びようとしている。どうしたらこの道を元のとおりに開けるだろうと嘆くのである。

だからこそ、私はここにこの「呵惰醒酔論」という一巻を著した。この書物は法華門流の要旨の筋を教えるものである。いずれにしても、末法悪世の智慧も能力もない世であるから、せめての足しになればと思って記した。これらは暗に前掲の二つの書物の論旨に合致している。」

難しいですよね。

読めない文字も、意味が分からないことも、たくさんあります。

しかし、この時代背景、海援隊の主張と長松清風の見解との一致、そのメッセージを、少しでも受け止めていただきたいのです。

以上が、海援隊『閑愁録』の要点と、長松清風の痛快な見解です。

ここを、本当はお伝えしたかったのですー(涙)。

長々と、すいません。

0 件のコメント:

幸の湯、常さん、北九州

帰国後、成田空港から常さんの枕経へ直接向かいました。 穏やかな、安らかなお顔でした。こんなにハンサムだったかなと思いました。御題目を唱え、手を握り、ご挨拶できて、よかったです。とにかく、よかったです。 帰国して、そのまま伺うことがいいのか悩みました。海外のウイルスを万が一ご自宅へ...