レスポンスが遅く申し訳ありません。
昨夜、無事にカトマンズまで帰ってきました。
HBSとして海外初となる学校が完成いたしました。
電波のない村の中で過ごしていたため、メールが90通、LINEは30通、Facebookが80と、深夜まで返信させていただこうと頑張りましたが、ウトウトしてしまいました。
今回のご奉公のことは、まだ、言葉になりません。
今生人界の、確かな思い出となりました。
何度も、涙が出ました。
解決できそうにないこともあり、ひとつひとつ話し合いを重ねて、最後にはサムンドゥラデヴィの村と私たちが一体となりました。
250人を超す生徒たちの笑顔。
仮設の教室から聞こえてくる声。
古いテレビ番組「川口浩探検隊」に出てくるような村のお家へお助行に行き、一夜を過ごしました。
鼻にビアスをした、働き者の女性たち。
三匹の鶏を捌き、お湯につけながら毛を取ります。
双子の子どもたち、ご両親、長男、姪、そして私たち。
夕方6時になると真っ暗になって歩くことが出来ません。
そもそも、お助行も、ご供養と宿泊することを前提に伺うしかありませんでした。
10人全員が、その家の土間の上で寝ました。
私のすぐ隣には15才の美しい少女が寝息を立てていました。
真夜中1時過ぎ、足を突く者がいたので、誰かが起こしていると思ったら子猫でした。
なかなか眠ることは出来ませんでしたが、五つ星のホテルに泊まるよりも一生の思い出となる素晴らしい一夜でした。
テントの中では寝袋に入って休みます。
あまりにも寒いので、みんな昼間の洋服のまま寝ます。
村人の口々から旭の名前が出て、あちこちで名前を呼んでいるのが聞こえました。
旭のために植えた桜は、ほんの少し芽が出ていました。
ミルキーババが、山羊たちが新芽を食べないように、きれいな柵を作ってくれました。
壮絶な支援活動でした。
学校の壁の色は新緑の緑、屋根は空の青。
外壁には金色のラインを入れて、窓枠は茶色です。
教室内はツートンカラーで上は明るい白、下は緑。
棟上御本尊は、校舎の棟の上にご奉安されると思っていましたが、生徒の誰もがいつでも拝見出来るように、外側の壁に特別な檀を設け、みんなが通る校庭に向かってご奉安されました。
支援活動を通じて、ネパールにも、この村にも、どこに出しても恥ずかしくない、純粋なHBSのメンバーが生まれました。
わずか半年のことです。
支援活動に参加した全員、特に最初から体当たりのご奉公を重ねてきたコレイア清行師のご信心の賜物です。
誰もが、心を震わせて、喜んでご奉公してくれました。
この国で、ネパール人によるボランティアが行われました。
「これまで、このようなことがあっただろうか。これまで、このような人たちがいただろうか。私は、それを知らない。この国は変わることが出来る。HBSの活動によって、私たちは多くを学んだのだ。この村を、この地域で、この国で、最も素晴らしい村にしようではないか。このことを、ここだけではなく、ネパール全国に広めようではないか。」
学校長が、声をうわずらせながら、力強く話した言葉に、心から感激しました。
村中に響く上行菩薩所伝の御題目。
ダイバーシティ。
人びとの顔も、文化も、宗教や信仰も、すべてが雑多に混ざり合った、多様性の象徴のようなこの国で、私たちがいただいているご信心の普遍性について思い知りました。
その全てにおいて、適合する、通用する、受け入れられる、理にかなっているのは、万法具足の妙法です。
私たち自身も、気づいていないかも知れません。
このネパールに、ご奉公の機会を与えていただいた全てに、心から感謝いたします。
まだまだ、序章のようなものです。
これから、さらに前に進みます。
朝夕、ご飯を食べる前にも、みんなが「南無妙法蓮華経」と御題目を唱えしています。
「私はこれで救われたのです」
「私はドラッグで人生の15年間を失いました。しかし、私は南無妙法蓮華経に出会って変われたのです」
「御題目を唱えたら天気が変わったのです」
「このマントラは宇宙や自然と繋がっています」
みんな現証の御利益に感激し、熱く語ってくれます。
シンプルな修行、奥深い教理。
私たちはまだ頭でっかちなのかもしれません。
もっと純粋にならなければ、ご弘通は出来ないということに気づきます。
思いもよらなかったことですが、大地震の支援活動を通じて、このネパールで、スリランカ、インド、ブラジル、そして日本が一つとなり、新しい時代のご弘通が始まりました。
振り返ってみると、私たちはいただいている尊い教えの可能性を、その10%も引き出していないのではないかと思います。
悠久の時間の中で、多様な宗教や文化の中で、三国伝灯、蓮隆扇、受け継がれ、育まれてきた真実の仏教のスゴさを痛感しました。
川口浩探検隊ではないですが、秘境の地で何かを見つけたのではなく、自分自身を、私たちのご信心の素晴らしさを再発見したということなのかもしれません。
気づき直すこと。
宝物に。
学校の理事会と向き合い、いろいろな話をしました。
彼らは自ら「アキラ・オバラ」の名前を永遠にこの村に刻むための提案をしてくれました。
「これでは5年で忘れられてしまう」
「これでは10年だろう」
その話を聞いていて、涙が出たのです。
僕たちは小さな小さなボランティア団体で、もう予算もないのに、彼ら自身がそうして話し合ってくれていました。
また、歴史的なご奉公になったのではないかと思い、旭の霊前にも胸を張って報告できます。
おぼっちゃまの僕にとっては、また苦しい、厳しい体験でしたが(笑)、歴史が動いたように思えて、すべてが今生人界の思い出です。
カトマンズの夜が明けました。
また、ゆっくり書きます。
お昼のフライトの前に、一軒お助行に伺って、空港に向かいます。