2017年11月5日日曜日

関家先生のテラコヤスコラ






関家新助先生によるテラコヤスコラ、本当にお出ましいただくことが出来て、貴重な講演をいただき、感慨ひとしお、心からありがたく、また夢が一つ叶いました。


本当に、ありがとうございます。


バイアスの強い人にはなかなか理解できないと思いますが、日本憲政史上大変貴重な資料に違いない『藩論』の内容を、今だからこそ知っていただきたいと思ってきました。


西洋哲学・国家観の専門家である関家先生の解説に、多くの聴講者が興味深く聴き入っておられました。


日本という国を知るために大切なこと。


仏教は因果律を説き、結果には必ず原因があるという一見当たり前のことを大切にします。


結果に振り回されているだけでは大切なことを見失うから。


大きな分岐点にあるからこそ、近代日本が誕生した150年前までさかのぼって、今の「日本」を見ていただきたい。


(今回も、めっちゃ長いです。飛ばしてください。友人たちから嫌われています笑。)


先生が『藩論』に出会われたのも、不思議な御縁が重なってのこととお聞きしました。


私も、今回の展示を作るためにブログに書いた関家先生のお名前を、高島さち子さまが目に止めてくださり、ご友人の元熊本県知事・潮谷さまを通じて連絡先をお伺いして、ご面会を果たすことが出来ました。


昨日、わざわざ高島さんも横浜から来てくださいました(涙)。


本当に、感謝です、感謝しかないです。


僕は『仏教徒 坂本龍馬』を書いた時、関家先生の本を傍らに置いて熟読していました。


ただ、名だたる研究者と同じように、こんな自分がお会い出来るなんて思ってもいなかったのです。


それが、今回お会いすることが出来、大いに議論が盛り上がり、今回の展示にもご協力いただき、京都佛立ミュージアムでのテラコヤスコラにまで至ったのです。


『藩論』については自著でも詳しく取り上げました。


著者名のない『藩論』と坂本龍馬や海援隊を結びつけるのは難しいけれど、決して現在世間に広がっているキワモノの説などではなく、丁寧な調査や研究によってこれまで関連づけられてきたものです。


もし、そうでなくても、あの明治維新のタイミングで、このような論文が世の中に出たことが凄まじいのです。


世界最高の諜報機関を持っていた英国の駐日公使パークスは、母国の外務大臣・クラレンドン卿に驚きをもって報告しました。


1870年1月29日(明治2年12月28日)のことです。


「『Han Ron(藩論)』は、いま、日本人の間で芽生え、主張されている個の自由(freedom)ならびに政治的自由(liberal ideas)に関するものであります。」


the growth among the Japanese of liberal ideas and of the freedom with which these are expressed.


通訳官C・ホールが『藩論』の全文を翻訳し、英国に送ったのです。


この外交文書は英国公文書館に所蔵されており、それを発見したのも関家新助先生でした。


今回、その公文書データを英国公文書館から提供いただき、京都佛立ミュージアムで展示しています。


それだけではなく、東京大学の明治新聞雑誌文庫には、1869年12月30日(明治2年11月28日)付のジャパン・タイムス・オーバーランド・メイル(Japan times over land mail)に "HAN RON"とタイトルを付けた記事が残されています。


当時、対日外交を担当する者にとって、この『藩論』が注目すべき論文であったことは疑いようもありません。


しかし、なぜこの『藩論』が、当時これほどまでに注目されたのでしょう。


これこそ、明治維新前後の思想や信仰の対立によります。


幕末の権力闘争や思想闘争の果てに勝利したのは、岩倉具視を中心とする朝廷、薩長両藩を中心とする勢力、その背後に蠢く復古主義者たちでした。


坂本龍馬や海援隊も天皇家をお敬いする「尊皇」は同じでしたが、過激な尊皇攘夷思想は復古神道という信仰に変質していました。


その復古主義者たちが権力者の背後で信仰者としての夢を実現させようとし、権力者たちは彼らのエネルギーを革命の原動力にしようと考えていました。


明治維新の直後、新政府が真っ先に進めた宗教政策、祭政一致の太政官制の導入や神祇官の復活、神仏判然令や廃仏毀釈運動の黙認など、その実例は数え切れません。


数年後、権力者たちは復古主義者の暴走を懸念して政策を柔軟にし、それに幻滅した玉松操のような人もいましたが、それらは形を変えて近代日本の誕生に大きな影響を与えてゆきました。


平田篤胤の説いた平田派国学や山鹿素行の『中朝事実』のような思想が、日本という国の、国家観の原点に位置づけられたのです。


『藩論』には次のような一節があります。とても重要な一節です。


「夫レ 天下国家ノ事、治ムルニ於テハ 民コノ柄ヲ執(ト)ルモ可ナリ 乱スニ於テハ 至尊(シソン)之ヲ為スモ不可ナリ 故ニ天下ヲ治メ 国家ヲ理(オサ)ムルノ権ハ 唯人心ノ向フ処ニ帰スヘシ」


「そもそも天下国家は、良い政治が行われれるならば、人民が政権を握る共和制でも良く、反対に政治が乱れるならば、天皇が政治を行う君主制でも良くない。故に天下国家の統治、政治権力の所在は、人民の世論によって決めるべきである。」


著者名が無いのは当然です。当時、こんなことを言えば狂信的な尊皇思想の志士、復古主義者に斬り殺されても仕方ありません。


『大日本帝国憲法』の第三条とは全く違います。


「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」


これを見れば分かるとおり、天皇親政を否定するような論旨などとんでもないことです。


それを『藩論』ではあっさり言っている。これは一体どういうことか、ということなのです。


それは『大日本帝国憲法』第2章の「臣民権利義務」とも全く異なる内容でした。


「民(people)」と「臣民(subject)」の違い。


彼らは『藩論』の中で万民平等の「民主主義」を謳い、上下二院制の「議会設立」を唱え、「衆愚政治」の愚かさも指摘していました。


明治では、選挙に大きな制限があり、15円以上の税金を納めている者にしか選挙権が与えられていませんでした。


それは国民の1%でしかない。


明治元年の末、『藩論』のような政治理念、政策を唱えたことのすごさ、特異さ。


京都佛立ミュージアムでは現代語訳を抜粋展示しています。


また、映像で見られる『藩論』の現代語訳全文朗読も準備しています。


是非、読んでみていただきたいです。


女性であろうと、小作人であろうと、素浪人であろうと、奴隷のような境遇にある方でも、同じ人間であれば、自由に生き、自ら考え、自ら発言し、国や社会のあり方に一票を投じられる。その権利を保障する。


近代国家を象徴する権利を、明治元年に唱えていたこと。


嫌かも知れませんが、日本人は日本人によってこうした近代国家を作れたかも知れないのに、半世紀以上を経て、戦勝国の介在によってそこにたどり着いた。


自由民権運動、大正デモクラシー、努力はしたけれど。


『藩論』を書いた彼らが言った「故ニ天下ヲ治メ 国家ヲ理(オサ)ムルノ権ハ 唯人心ノ向フ処ニ帰スヘシ」という理念。


マキアヴェッリの『政略論』を思い出します。


「民衆(ポポロ)ほど軽薄で首尾一貫とは程遠いものはないとは、ティトウス・リヴィウスの評価であるが、他の多くの歴史家も、これと同じことを書いている。


まったく歴史上の彼らの行動を見れば、民衆が誰かを死刑にしたのに、同じ民衆がその直後に後悔して涙を流す、という場合に終始出会う。


これについて、リヴィウスは次のように言っている。


“彼が死に、彼によってもたらされていた脅威が消えるやいなや、民衆は後悔の念にかられ、涙を流して彼をしのんだ”


また、ヒエロンの甥のヒエロニムスの死後に、シラクサで起こった出来事にふれながら、次のようにも書いた。


“卑屈な奴隷か、さもなくば傲慢な主人か、これが民衆の本質である”


こうまで言われると、わたしとしても、民衆を弁護するなどという大変な仕事を、受け持ってよいものかどうか迷ってしまう。これほど厳しく非難されている人々の弁護役など不利も明らかで、はじめたとしても結局赤っ恥をかいて投げ出すしかないのでは、とまで思ってしまう。


しかし、きちんとした反論はしておいた方がよいと思うので、あえて弁護するが、歴史家たちが民衆の欠点として糾弾するこの性格は、実は人間全体、その中でも特に指導者たちにこそ、向けられるべきものだと言いたい。


なぜなら、法に反する行為をする者は誰であれ、秩序なき民衆と同じ誤りを犯すものだからである。


あと先のことも考えないで暴走するという民衆の性格は、指導者のそれよりも罪が深い訳ではない。両者はいずれとも、思慮に欠ける人ならば誰でも、この誤りは同じように犯しているのだ。


それ故に、この場合での理にかなった議論としては、階級で分けずに、人間全体に共通する欠点への糾弾という形でなされるべきだと思う。


“民の声は神の声”と言われるのも、まんざら理由のないことではないのだ。


なにしろ、世論というものは、不思議なる力を発揮して、未来の予測までしてしまうことがある。


また、判断力ということでも、民衆のそれは、意外と正確だ。二つの対立する意見を並べて提供してやりさえすれば、世論はほとんどの場合、正しい方に味方する。


もちろん、世論にも欠点はある。真に有益なことよりも、見ばえのよいものの方に眼を奪われる場合が多いからである。


しかし、指導者たちといえども、自分たちの欲望に駆られて、同じ欠陥におちいることが多いではないか。しかも、指導者たちの欲望ときたら、民衆のそれよりもずっと大きいときている。


ゆえに、民衆とか指導者とかの区別をつけずに、両者に共通する欠陥として論ずるのが、理に適ったやり方だと信ずる。」


マキアヴェッリらしくないと言えばらしくないし、らしいと言えばらしい文章。


現代では情報デバイスやそれを駆使したマーケティングが発達しすぎて「二つの対立軸」をわざとボカして操作するため、彼の論旨が合致するかなかなか難しいのですが、さすがです、マキアヴェッリ。


どうしても、こうしたことをメモのように書いておきたくて、書いてしまいました。


『藩論』の内容は本当に特別なものでした。


“日本人が日本人のために初めて唱えたデモクラシー”と言っても過言ではありません。


そして、『藩論』の次に出てくるのが、著者名に「海援隊文司」、つまり長岡謙吉、裏表紙には「海援隊」と大きく書かれた『閑愁録』の存在。


さらに、その先に、『閑愁録』を称えた、幕末維新の仏教改革者・長松清風の存在、絶賛があります。


その絶賛の内容は「宗祖ノ安国論ノ御説ニ合ス」で、世界的宗教家・日蓮聖人が登場し、その思想と信仰があるのです。


鎌倉期の日蓮聖人こそ、「くにがまえ」の中に「民」と書いて見せて、民を中心に据えた平和国家の建設を唱えた最初の日本人、いや最初の地球人ではなかったか。


「玉」でも「王」でも「戈」でもなく、民を中心とする。


だから、その「民」の「心」を何とかしないと何とも成らんという。


長々と、もし、ここまで耐えて読んでくださったなら御礼を言わないと(笑)。


ありがとうございます。


京都佛立ミュージアムでは、『藩論』の現代語訳抜粋展示、映像で見る現代語訳全文朗読、『閑愁録』の全文を展示しています。


是非、ご覧いただきたいと思います。


本当に、ありがとうございます。

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