存命中のコトラーを除き、アルビン・トフラーやドラッガー亡き後、透徹した眼で現代社会を見ているユヴァル・ノア・ハラリ。
このニューズウィークの記事はハラリ氏の論考への反論というか付記のよう。
「コロナ後の世界」は来るか?
2013年、佛立研究所の研究員だった頃、『2030年 世界はこう変わる アメリカ情報機関が分析した「17年後の未来」』という本を引いて論文を書いた。
米国国家情報会議が刊行したこの本には、ビッグデータを駆使して国家権力が強大化し、統制型の社会が到来すると予想されていた。思想や宗教、趣味や嗜好、交友関係や関心事、位置情報がデータ化され、それらは密かに、あるいは必然的に管理され、2030年には犯罪や不正が減る、と。
しかし、明るい未来ばかりではない。国家権力は強大化する。それらを統括するのもまた人間であり、組織は必ず腐敗することから危険に違いなく。
いま、人類史に残る、新型コロナウイルスの世界的感染拡大という大災禍を迎えて、社会が構造的に変化を強いられる。
ウイルスがそうであるように、自然界では、変化か、進化の、どちらかをして生き残るものだ。
それが、変化なのか、進化なのか。
ストレスや恐怖によって、社会に偏った考えが蔓延するのか、それとも、より普遍的な、より協調主義的な世界観が広がるのか。まだ分からない。
「ユヴァル・ノア・ハラリが日本経済新聞に興味深い論考を寄稿している。その内容は、政治的な決断とリーダーシップを求める声が、国家権力による監視の強化と孤立主義を深めることを憂慮し、市民の知識をアップデートすることや国際的な連帯を強くすることを求めるものだ。つまり「コロナ後の世界」が、独裁的で権威的なものになるか、リベラルでオープンなものになるか、という選択に直面しているというのである。」
「起きているのは「市民の権限強化を伴う、権力による監視の強化」であり、ある部分では市民が非常に賢くなるが、別の部分ではどのように監視されているのかすら把握できなくなるという事態の同時進行なのだ。」
国際社会は複雑なことも、演繹法の限界も分かるけれど、やはりハラリ氏の論考の方が説得力を持つ。
いずれにしても、私たちが岐路に立っていることだけは間違いない。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/04/post-93021.php
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