2011年1月1日土曜日

『ここに、仏教があります』

世は混乱の闇の中にあります。暗中模索(あんちゅうもさく)、疑心暗鬼(ぎしんあんき)。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)して、真と偽、正義と不正義を雑乱させています。このままでいいと思っている人はいないのですから、何とか、世の闇、心の闇から抜け出さなければなりません。

明治維新後の日本は大きく二つの時代に分けることが出来ます。一つは一八六八年の明治維新から昭和二十年(一九四五年)の敗戦までの七十七年間です。そして、もう一つは敗戦から平成二十三年(二〇一一年)の今に至るまでの七十年弱の期間です。この二つの時代を踏まえて、日本や日本人を捉え直さなければ次の時代の扉は開かないと思います。
前者は、明治維新後に誕生した国家神道の時代でした。そして、後者は連合国によって再出発した戦後の日本です。それは、戦中の全体主義によって傷ついた人々が復興を遂げてゆく時代でした。
ここで近代思想史を詳述しようとは思いません。しかし、二つの時代の特徴が、今の日本や日本人を作り出しました。

狂気の中で生まれる宗教や信仰があるように、多くの場合、思想とは、ある種の緊張状態、反逆や反骨の中から誕生します。

二つの時代の誕生には、壮絶な産みの苦しみが伴いました。前者には日本人同士の殺し合い、暗殺の連鎖、戊辰(ぼしん)戦争がありました。後者では凄惨(せいさん)極まりない世界大戦、全国民が決定的な災禍を味わった敗戦がありました。これら壮絶な出来事を数行で語り尽くすには、失われた命が重すぎて出来ません。しかし、この二つの時代の思想は、誕生の経緯に決定的な影響を受けて成立しています。

明治維新は、その内実は「尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)」という、ある種の「宗教」を原動力とした革命でした。それは維新後の政策を見れば明らかです。

この「尊皇攘夷」という思想は、「宋(そう)」という特殊な事情を抱えた中国の王朝に誕生した学問体系で、後には朱子学(しゅしがく)となって江戸幕府の正学となりました。宋は、女真族(じょしんぞく)の侵略とそれに内通する家臣らによって危機的な状況に陥り、臣下の道義を説く大義名分(たいぎめいぶん)論、尊皇(そんのう)論や攘夷(じょうい)論を発展させました。「夷(い)」とは「女真族」を指していました。

日本は天平飛鳥(てんぴょうあすか)の時代から独特の精神思想文化を培っていました。しかし、この朱子学は鎌倉幕府が誕生した頃に来日し、その底流で生き続け、江戸期には国学と結びついて日本の思想を一変させます。「神仏(しんぶつ)」は「神儒(しんじゅ)」となり、「国学(こくがく)」は「神道(しんとう)」となってゆきました。過激に変容した思想は、幕末期の人々が信奉するものとなりました。
明治新政府は、頑迷な「攘夷」については早々に破棄しましたが、残された「尊皇」「神道」については国家として実現してゆきます。

 「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」

この書き出しで有名な島崎藤村の「夜明け前」は、父をモデルとした小説で、信州木曾の馬籠宿(まごめじゅく)を舞台に、尊皇攘夷にかけた主人公、青山半蔵(あおやまはんぞう)の希望と絶望が描かれています。
半蔵は平田(ひらた)篤胤(あつたね)が唱えた国学を学び、今こそ日本人は日本古来の価値観を取り戻し、日本の自然に根ざした生活をすべきである、と王政復古に夢を懸けます。しかし、明治の世に翻弄され、家族からも周囲からも孤立し、最後には政府にも幻滅し、牢の中で狂死します。その不幸は言語を絶します。

半蔵が信じた平田篤胤の国学は、儒教や仏教と習合した当時の神道を批判し、独善的で排他的な復古神道を唱えました。膨大な著書の多くは、実際は奇っ怪(き  かい)で、滑稽(こっけい)な内容ですが、江戸末期の飽和した社会の中、ついに人々が信奉する思想にまでなってしまいました。極端な思想は後期水戸学と合体し、庶民層にまで爆発的な普及を遂げ、倒幕の原動力となりました。

慶応四年三月、復古神道は神仏判然(はんぜん)(分離)令として政府の政策となり、日本史上類を見ない廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)という破壊運動に発展。この短期間に、日本の国宝級の文化財の約半数が破壊されたといいます。

維新を主導した薩摩では、藩主島津家の菩提寺までが廃寺となり、鹿児島から仏教寺院は一掃され、土佐藩でも高知市内の寺院を壊滅させました。これが行われたのは明治元年から僅か数年のことです。

 坂本龍馬を持ち上げて明治維新を美化しようとしても、実際には龍馬とは思想も宗教も異なる面々が乱暴に宗教国家を作り上げた、というのが明治維新の真相です。

平田派国学という完全に偏った復古神道を政策化したのは、権力の座に就いた岩倉具視(いわくらともみ)等の背後に取り憑いた薩摩諏訪神社の神職・井上石見(いのうえいわみ)、大国隆正(おおくにたかまさ)や福羽美静(ふくばびせい)、岩倉邸に仮寓(かぐう)した祐筆の国学者・玉松操(たままつみさを)、余生を岩倉邸で過ごした日吉大社の祠司・樹下茂国(じゅげしげくに)などで、最高権力者と共に「神国・日本」の国づくりに腐心しました。

幕府の下、権力に取り込まれて腐敗していた仏教僧にも非があり、屈辱を味わってきた神職の怒りの背景にも多くの理由がありました。しかし、日本の不幸は、こうして始まってしまった国家神道政策が、危険な遺伝子となって人々の心の中にくすぶり、最終的には全国民を地獄のような戦火の中に導いたことです。

明治の闇に光を当てなければ、日本人の未来も世界も見えません。
平田(ひらた)篤胤(あつたね)は、本居宣長(もとおりのりなが)の弟子を自称しましたが、生前の彼は宣長に会ったこともありません。ただ、夢の中で師弟の契りを交わしたと妄想を強弁しました。種々雑多な宗教や学問の断片から独善の著書を重ね、ついに狂気の心酔者らは日本を偏狭な方向に導いたのです。日本の不幸は倒錯者を信じたことから始まりました。今の教祖にも似た者がいます。
開導聖人の国学の師である城戸(きど)千楯(ちたて)は宣長(のりなが)の直弟子で、平田批判の急先鋒でした。開導聖人(かいどうしょうにん)はこの城戸(きど)門下四百人の中から選ばれて千草(ちぐさ)家での講義を勤められたほどでした。徹頭徹尾、平田派国学と異なるお立場にありました。

開導聖人や坂本龍馬らが唱えた仏教による日本の平穏は、維新後の七十七年間は公に語られることがなく、むしろ隠されていました。

そして、敗戦後の日本は、全体主義に辟易(へきえき)した国民の多くが宗教を怖れ、共産主義に惹かれ、資本主義に没頭して、その心は今なお漂流したままとなっています。

二つの時代に呪縛され、多くの人が本当の日本人の誇りを知りません。天下の乱れも心の乱れも、仏教によって取り除くべきです。ここに、仏教があります。いま、生きたお寺が仏教を再興します。

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