14日の深夜、一本の電話があった。ある50代の女性からだったが、年末から心身のバランスが崩れていて、自分ではどうしようもないということだった。「死にたい」「死んだ方がマシだ」という気持ちに押されて負けそうになる。一方で、「このまま死んでしまうのではないか」という不安も抱えておられ、身動きが取れない。苦しそうな声、必死に言葉にしているが、その向こう側にある言い表せない苦悩を感じた。
次の日は教区御講が二席。夕方ならば少し時間が取れる。17時頃にお宅に伺うとお約束した。まずは、お顔を拝見して、そのお宅の御宝前にご挨拶させていただき、状態を見た上でお話をさせていただきたいと考えた。大丈夫、安心して、御題目をお唱えして、明日伺います、とお伝えした。
今まで、お母さまの勧めでご信心をされてきたものの、それは到底「自分自身の信心」と呼べるものではなかった。御宝前へ向かうことも、自ら御題目をお唱えすることもなかなか出来ず、続かなかったと思う。実際、彼女は社会的に活躍してきた方で、その言動も行動力も人並み以上と言って良いほどだった。だからということではないが、なかなか「ご信心」に気持ちが向かなかったのかも知れない。社会的な成功を手中にしている人は、御仏の教えの尊さを自らブラインドしてしまうことがある。彼女もこれまでは自分から「御題目口唱」という「修行」に向かうことも、続けることも出来なかった。お寺との御縁はあっても、である。
しかし、今回だけは今までと違う。彼女自身が大きく壁を乗り越えるチャンスではないか。何度か、これまでも同じように精神的に辛い状況になったのを見守ってきたが、今回こそは彼女自身が御宝前に向かっていた。実は、12月から朝夕のお看経をするようになったというのである。しかし、このように辛い状況になった。お看経しているのに、なぜこのような辛い状況になるのか、という問いもあった。
私は、これまでと違って、あなたがずっと苦しんできた心の病が、御宝前に向き合っている間に起きていることにすら意味があると感じていると伝えた。御宝前に向き合っていない時に同じような症状に陥ってしまったことは何度かあった。しかし、結果的に御題目をお唱えして何とかお計らいをいただこうということにはならなかった。だから、今回こそ、ご信心で御利益をいただき、自分が抱える悪循環を乗り越えるチャンスではないか、と。
ご自宅でお話をして、そのことをお伝えした。また、せっかくの寒参詣中だから、自宅で一人でお看経するだけではなく、次の日から朝参詣することをお勧めした。お寺でお看経させていただくということは、大勢の人と一緒に御題目が唱えられるということである。一人ではなく、他の人と共にするご信心。一人では続かないことも、多くの方の御力、お助行をいただくことによって続く。是非にとお勧めした。
16日から私は京都のご奉公となり、彼女がお参詣出来ているか確認することが出来なかった。そして、19日の朝、ご供養場で彼女とお会いした。元気そうで、ご供養を召し上がっている最中だったのだが、本当に感激した。続けてくれていたのだ。お参詣してくれていたのだ。ありがたい。
お話を聞いてみると、お参詣をするようになってから身体に出ていた痛みも消えてきているという。朝参詣させていただいた後、ご自宅でも4本のお看経をされているという。ありがたい。何とも有難い。
彼女に限らず、原因の分からない痛みを身体に感じて病院を訪ねる人も多い。自分では自覚症状はないが、身体が悲鳴をあげている。病院を転々としても原因が分からないままで、多くの場合は「自律神経の病気」か「心身症」「うつ病」などと診断されて薬を出されるか、自律神経を整えるエクササイズを教えられるか、である。
自律神経を整えるエクササイズは、たとえばベッドに横になって、右側から地球の重力を感じる、、、左側から地球の重力を感じる、、、、両足に地球の重力を感じる、、、、、ということを繰り返すものだそうだ。しかし、当たり前だが、仏教的にはもっと良いエクササイズ、「修行法」があるのである。それが、五感を使ったエクササイズ、「御題目口唱」だ。
御題目口唱は心に働く。「信とは口唱なり」だから、「口に唱える」ということが、心の中の作用である「信」とイコールであると教えていただく。御宝前に向かい、姿勢をただし、眼を開き、御題目をお唱えするということが、どれだけ心と身体にとって有効であり有益か。このような角度から見てみても、分かると思う。
寒参詣も折り返し地点を過ぎた。厳しい寒さの中のお参詣は厳しい。しかし、だからこそ、ここからが本当の寒参詣であるとも言える。そして、御題目口唱も簡単ではない。ここでポイントがある。それは、「するか」「しないか」ということを、自分の「気持ち」に任せてはいけないということだ。御題目口唱も、「しようかな」「やめとこうかな」ということを頭で考えるのではなく、「口に任せて」唱えなさいと教えていただく。お参詣も同じだ。「行こうかな」「やめとこうかな」と頭で考えるのではなく、「足に任せて」お参詣をしなさい、と教えていただく。だから、彼女には、考えることを止めて、口と足に任せて、実践の「修行」を積み重ねていただきたい。必ず、お計らいがいただけると思う。
次の日は教区御講が二席。夕方ならば少し時間が取れる。17時頃にお宅に伺うとお約束した。まずは、お顔を拝見して、そのお宅の御宝前にご挨拶させていただき、状態を見た上でお話をさせていただきたいと考えた。大丈夫、安心して、御題目をお唱えして、明日伺います、とお伝えした。
今まで、お母さまの勧めでご信心をされてきたものの、それは到底「自分自身の信心」と呼べるものではなかった。御宝前へ向かうことも、自ら御題目をお唱えすることもなかなか出来ず、続かなかったと思う。実際、彼女は社会的に活躍してきた方で、その言動も行動力も人並み以上と言って良いほどだった。だからということではないが、なかなか「ご信心」に気持ちが向かなかったのかも知れない。社会的な成功を手中にしている人は、御仏の教えの尊さを自らブラインドしてしまうことがある。彼女もこれまでは自分から「御題目口唱」という「修行」に向かうことも、続けることも出来なかった。お寺との御縁はあっても、である。
しかし、今回だけは今までと違う。彼女自身が大きく壁を乗り越えるチャンスではないか。何度か、これまでも同じように精神的に辛い状況になったのを見守ってきたが、今回こそは彼女自身が御宝前に向かっていた。実は、12月から朝夕のお看経をするようになったというのである。しかし、このように辛い状況になった。お看経しているのに、なぜこのような辛い状況になるのか、という問いもあった。
私は、これまでと違って、あなたがずっと苦しんできた心の病が、御宝前に向き合っている間に起きていることにすら意味があると感じていると伝えた。御宝前に向き合っていない時に同じような症状に陥ってしまったことは何度かあった。しかし、結果的に御題目をお唱えして何とかお計らいをいただこうということにはならなかった。だから、今回こそ、ご信心で御利益をいただき、自分が抱える悪循環を乗り越えるチャンスではないか、と。
ご自宅でお話をして、そのことをお伝えした。また、せっかくの寒参詣中だから、自宅で一人でお看経するだけではなく、次の日から朝参詣することをお勧めした。お寺でお看経させていただくということは、大勢の人と一緒に御題目が唱えられるということである。一人ではなく、他の人と共にするご信心。一人では続かないことも、多くの方の御力、お助行をいただくことによって続く。是非にとお勧めした。
16日から私は京都のご奉公となり、彼女がお参詣出来ているか確認することが出来なかった。そして、19日の朝、ご供養場で彼女とお会いした。元気そうで、ご供養を召し上がっている最中だったのだが、本当に感激した。続けてくれていたのだ。お参詣してくれていたのだ。ありがたい。
お話を聞いてみると、お参詣をするようになってから身体に出ていた痛みも消えてきているという。朝参詣させていただいた後、ご自宅でも4本のお看経をされているという。ありがたい。何とも有難い。
彼女に限らず、原因の分からない痛みを身体に感じて病院を訪ねる人も多い。自分では自覚症状はないが、身体が悲鳴をあげている。病院を転々としても原因が分からないままで、多くの場合は「自律神経の病気」か「心身症」「うつ病」などと診断されて薬を出されるか、自律神経を整えるエクササイズを教えられるか、である。
自律神経を整えるエクササイズは、たとえばベッドに横になって、右側から地球の重力を感じる、、、左側から地球の重力を感じる、、、、両足に地球の重力を感じる、、、、、ということを繰り返すものだそうだ。しかし、当たり前だが、仏教的にはもっと良いエクササイズ、「修行法」があるのである。それが、五感を使ったエクササイズ、「御題目口唱」だ。
御題目口唱は心に働く。「信とは口唱なり」だから、「口に唱える」ということが、心の中の作用である「信」とイコールであると教えていただく。御宝前に向かい、姿勢をただし、眼を開き、御題目をお唱えするということが、どれだけ心と身体にとって有効であり有益か。このような角度から見てみても、分かると思う。
寒参詣も折り返し地点を過ぎた。厳しい寒さの中のお参詣は厳しい。しかし、だからこそ、ここからが本当の寒参詣であるとも言える。そして、御題目口唱も簡単ではない。ここでポイントがある。それは、「するか」「しないか」ということを、自分の「気持ち」に任せてはいけないということだ。御題目口唱も、「しようかな」「やめとこうかな」ということを頭で考えるのではなく、「口に任せて」唱えなさいと教えていただく。お参詣も同じだ。「行こうかな」「やめとこうかな」と頭で考えるのではなく、「足に任せて」お参詣をしなさい、と教えていただく。だから、彼女には、考えることを止めて、口と足に任せて、実践の「修行」を積み重ねていただきたい。必ず、お計らいがいただけると思う。
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