2008年1月1日火曜日

仏教にシフトする

 大丈夫かなぁ、と心配になってしまう。何もかも、である。
 地球環境の悪化と温暖化防止、世界的な金余りとサブプライム・ローンの破綻、食物の安全確保、産地や製造年月日の偽造や偽装。本当にこのまま、地球も、人類の運用している社会システムも維持してゆけるだろうか。
 この十年、国内の障害児増加が著しいと言われている。神奈川県では養護学校の在籍児童数は毎年二校分に匹敵する二百~三百名のペースで増え続けているという。小・中学校の特殊学級は、さらにハイペースで、在籍児数は十年前に比べて二倍近く増加している。明らかに異常な状況に陥っても、遅々として原因の究明は進まず、責任の所在も明確にならない。
 便利になった、社会は発展した、豊かになったと言いつつ、実際は、情報を偽り、対応策を誤魔化し、問題から目を逸らしてはいないか。
 立場や仕事、家庭環境が違えば、眼に入る問題も異なる。今までは大丈夫と目をつぶることも出来た。しかし、地球は一つの生命であり、二十一世紀の地球は完全に一つのシステムで動いている。遠い異国の人たちの仕事や生活と、私たちの生活や未来や安全は、今や完全に一致した課題であり問題である。
 一昔前なら見過ごせた問題も、いま自分や自分の家族の身に降りかかろうとしている。自分や家族を守るためにも、何を為すべきか考え、行動を起こさなければならないと思う。
 私は、その第一歩を、仏教徒になることによって踏み出すべきだと考える。
 顕在化した問題を追っていても本当の答え、原因は見つからない。世界規模で起こる問題は、人間の「心」が巻き起こす結果の表れに過ぎない。あらゆる問題の原因は、シンプルに、「心」だと断言できる。 つまり、「心」があらゆる問題を巻き起こしている。その「心」を変えなければ、問題は解決しない、全て一過性の対処療法に終わる。
 世界中に問題が山積し、自然界との絆も断ち切れようとしている。溢れる投資マネーが世界を席捲し、人々を実業から虚業に駆り立てて視界を狭くする。一度飛び乗れば終わることのないシーソーゲーム。家族間、民族間、宗教間で起こる紛争・闘争・テロ。
 傲慢に言うつもりはない。ただ、「心」が問題の根本なら「宗教」は何の役割を果たしているのか。
 キリスト教徒は二十億人を超え、イスラム教徒は十三億人を超える。世界の人口を六十六億人として、その半数を占める人々が信仰する二つの宗教が、混迷を深めていると感じる。争いや攻撃を容認するDNAを、両宗教は共有している。神に命運を委ねる一方、他を断罪し、責任を転嫁しやすい教えだ。
 私は、混迷する世界にあって、仏教徒にしか考えられないこと、気づけないこと、出来ないことがあると信じている。そして、混乱と争いを繰り返す中でも、仏教徒であれば心豊かにいられる、自分や家族を守れる、と信じている。平衡感覚を失わず、自分を見失うこともなく、力強く、そして謙虚に生きる人が仏教徒であると思う。
 次の時代の幕は仏教徒によって開かれるべきだと思う。自然との共生にしても、動植物との対話にしても、仏教徒だからこそ分かり得る世界観がある。貧しい国や人々を豊かにするための考えも、仏教徒ならばこれまでとは異なる答えを導き出せるのではないか。家庭の中でも、職場でも学校でも、「仏教徒」であることを自覚して生きることで、スッと解決の糸口が見つかる。様々な人間関係の中にあっても、「仏教徒」であることを自覚すれば、鬱屈した気持ちにならずにいられるのではないか。
 ただ、「仏教徒」と簡単に一括りにすることはできない。世間的に「仏教徒」とは、漠然と「仏教を信じている人」程度にしか考えられていないだろう。そうではない。筋の通った、御仏の真意を汲んだ者でなければ、簡単に「仏教徒」とは言えない。
 良い薬も処方箋に従うからこそ効果が期待できる。勝手な解釈は薬を毒に変えてしまうこともある。「仏教」と言っても「ブッダ」を横に押しのけて「教え」を立てていれば、それはもはや「仏教」ではない。後世の者が発明したことになる。
 たとえば、司馬遼太郎氏の著作、「空海の風景」で高野山を開いた弘法大師・空海について書かれている。
 その一節に次のようにある。
「空海はさらにぬけ出し、密教という非釈迦的な世界を確立した。密教は釈迦の思想を包摂してはいるが、しかし他の仏教のように釈迦を教祖とすることはしなかった」
 強力な重力と魅力を持った空海は、「ブッダ」を超えようとした。故に、空海は「荼毘」に付されることすら拒んだ。死後についてもブッダとは全く別の道を歩んだ。「非釈迦的な世界」を「仏教」というのは土台無理な話であろう。
 あくまでも「仏教」は「ブッダ」に依らなければならない。
 お祖師さまは、
「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず、又末葉にもあらず」
と宣言され、自らの意見で宗派を立てるつもりなどなく、ブッダの御本意を正しく受け継ぎ、伝えてゆく立場だと表明されている。
 回りくどい言い方を続けたが、真の「仏教徒」とは「佛立信徒」であると考える。非釈迦的な世界などではなく、ブッダの御本意を体して生きる信仰者、菩薩である。
 挙げれば切りがないが、仏教徒の在り方にはいくつかのポイントがある。負けん気と根気と慈悲の、三つの心のある人が「仏教徒」である。逆に、自屈、上慢、二乗心の人は仏教徒とは言い難いだろう。 仏教徒は、生来的な階級や差別の無いことを知っている。仏教徒は三世を知る、因果を知る、物事の原因に関心を持ち、結果を大切にするが、一喜一憂はしない。 仏教徒は、人のせいにしない。順調な時に驕らず、逆境にあって屈しない。雨にも負けず、風にも負けず、人のことを思いやる。
 仏教徒は単なる善い人ではない。嫌われたとしても言うべきことは言う。相手を思いやればこそ言う。 仏教徒は、科学と相反することはない。むしろ歓迎するが、盲信はしない。仏教と科学の接点に、ブッダの教説の真理を見出す。
 混乱する世相にあって、仏教徒となれば、より強く生きることが出来る。自分も幸せになり、周りも幸せになる道。
 今年、「仏教徒」が一人でも増えれば良いと思う。時代は仏教にシフトしている。

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