2015年2月22日日曜日

カルチャーコーディネーター

師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ

夕方、18の頃からお世話になっている方にお時間をいただいて、保土ヶ谷区の喫茶店でお話をしていました。

まさに、開導聖人の、この御教歌を思い浮かべて、自分の弱さや甘さと向き合うことが出来ました。

師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ

この世界は、大きな実験場、実験材料は自分。

どこまで行くの。

どこで終わり?

なぜ思い込むのか、なぜ調子に乗るのか、なぜ偏るのか、なぜ寂しくて、なぜ苛立って、なぜ迷うのか。

うっかりしてたら、終わってしまう。

仏教、ご信心、もっと厳しいものだと思う。

ご信心という輪の中で、ただ甘えてしまう人もいると思う。

「ために」という言葉は、漢字にしてにんべんをつけたら、「偽」になるんだ。

「みんなのために」「彼らのために」「被災地のために」「虐待された子どもたちのために」と言っている、その中の、中に、突き詰めて、甘えがないか、調子に乗ってないか、本気か、本当か、何が出来ているのか、何をしているのか、言葉に酔っていないか、聞いて感心しているだけじゃないのか、結局、何もしていないし、何も出来ていないんじゃないか、ということを、突き詰めなきゃいけない。

そう、思うのです。

「〜のために」ばかり使う人間が、「偽」や「偽善者」と呼ばれるくらいに、厳しく僕たちを自戒して。

難しいよ。

当然。

簡単じゃない。

いっぱいあるんだ、進めば進むほど。

小学生には小学生の問題、中学生には中学生の、高校生には高校生、大学生には大学生の問題があるから。

原典、法華経の如来寿量品には、次のような仏陀のお言葉があります。

常に我を見るを以ての故に 而も驕恣の心を生じ 放逸にして五欲に著し 悪道の中に堕ちなん」

いつも、見ていると、分からなくなるということです。

だから、ご信心していても、単なる依存体質ではダメ。

ダメだと思うよ。

もちろん、病気の人に重たい荷物を背負わせない、重たかったら、僕が背負う、でも、少しでも体力が回復したならね、自分で背負わなきゃいけない。

それが、人生だから。

生きるということは、そういうことなの。

重たい。

修業の場所、修業の時です。

でも、だからこそ、楽しいよね。

結果ばかりを、簡単に見るのではなくて、答えを、あっという間に手に入れるのではなくて、その結果や答えを導き出すプロセスにこそフォーカスして、自分を練り直さないと。

ご信心している場所がぬるま湯になって、ご信心しているから甘えて、ご信心しているから、だらしない、ゆるい、客観性を失うなんて、本末転倒甚だしいのだから。

南無妙法蓮華経。

ご信心の尊い意味を、示すのも、ダメにするのも、僕たち次第です。

「いつも、私を見ているからといって、慢心して、むしろ好き放題、さらに欲深くなって、悪い道に行く者がいるよ」

そう、法華経に、仏陀釈尊のお言葉で、そう説かれてしまっているのだから、降参しないといけません。

そうではないですか?

そうじゃないかしら?

「僕はご信心してる」

「いつでもお寺に行ける」

「お看経しようと思ったらいつでも出来る」

なんて、思っていると、危ない。

教務も、誰でも、つくづく、慢心しないで、本当の意味を、掘り下げないと。

師匠でも親でもいふて下さらぬ
事おほくあり われとつゝしめ

ぼくは、今日も、コテンパンにしていただいて、ありがたかったです。

朝から、妙深寺の全部の部屋が会議でいっぱいで、最高でした。

追求します、何もかも。

カルチャーコーディネーターじゃ、ダメだ。

1 件のコメント:

伊那谷 さんのコメント...


修行は、正しくは修業とかくことを教えられました。

「聞くは一時の恥聞かぬは末代の恥」と申します。お尋ねしてよかった。

ありがとうございます。

今年もいよいよ大詰めですー

いよいよ「今年最後」のご奉公が続き、「よいお年を」というご挨拶をさせていただくようになりました。 今年最後の教区御講を終えた日曜日の夕方、横浜ランドマークタワーのスタジオで白井貴子さんをゲストにお迎えしてラジオの収録を行いました。ずっと聴いていたいほど大切なお話が盛りだくさん。 ...